*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。
『窓ぎわのトットちゃん』(以下『トットちゃん』)は,黒柳徹子の自伝的小説を原作とするアニメーション映画である。実在の人物や出来事を扱ったリアリズムをベースとしつつ,子どもたちの身体運動をアニメーションならではの技法によって細やかに表象し,戦争前夜の日本における小さな〈自由〉を美しく描いた傑作だ。
あらすじ
「困った子」として小学校を退学になってしまったトットちゃんは,ある日,母に連れられて「トモエ学園」という風変わりな学校を訪れる。その校長・小林先生はトットちゃんの話に熱心に耳を傾け,「君は,ほんとうは,いい子なんだよ」と言ってトットちゃんを温かく迎え入れる。
トットちゃん:自由な身体
母に連れられて自由が丘の駅に到着したトットちゃんは,後ろに人が並んでいるのも構わず改札の出口に留まり,駅員に切符をねだってしまう。別れ際,全身をくねくねと捩らせながら「わたしこれから新しい学校に行くので忙しいの」と言ったかと思うと,そそくさと母の元へ駆け寄り,おしゃべりを始める。クルクルとよく動くトットちゃんの姿に目を奪われる。
トットちゃんは以前通っていた学校を「退学」になっていた。机のフタを何度もパタパタ開け閉めしたり,窓からちんどん屋を呼んだり,机にはみ出してお絵描きをしたりと先生に迷惑をかけたため,「困った子」として“普通”の学校から疎外されてしまったのだ。
映画はこの冒頭数分のシーンで,トットちゃんの自由な行動ーーあるいは〈運動〉と言った方が適切かもしれないーーを鑑賞者に徹底的に印象付ける。金子志津江のデザインによる可愛らしいトットちゃんは,適度なデフォルメを施されつつ,アニメ的身体ならではの解放感と浮遊感に満ち溢れたモーションでそこかしこを生き生きと動き回る。
トットちゃんというキャラクターは,あらゆる制約や束縛から解放されている。裕福でリベラルな家庭環境という条件もその人格形成における重要な外的要因の一つだ。しかしアニメになったトットちゃんを見ていると,もっと内発的なエラン・ヴィタールがキャラクターの中核を成しているように思える。それはちょうど,線路という束縛から解放されてトモエ学園の校舎に置かれ,トットちゃんの空想の中で解き放たれたあの電車の教室と同じような,生き生きと豊かな創造性に満ちた生命の力だ。
したがって,トットちゃんというキャラクターがアニメーションとして表象されたことには一定の必然性がある。黒柳によれば,原作の『トットちゃん』はこれまで何度か実写映画化のオファーがあったのだが,実写では彼女の中のイメージに合わないと判断し,断り続けてきた。*1 今回,改めてアニメ映画化が提案された際,「アニメであれば幻想的な雰囲気にもなって,自分のイメージに近いものになるのかもしれない」と考え承諾したのだそうだ。*2
トットちゃんの自由な身体は,現実の身体そのものというよりは,アニメーションによって仮構されたアニメ的身体である。それは“黒柳徹子”という現実の身体を基底としながらも,部分的に「幻想」化された表象-身体なのだ。現実に存在した身体でありながら,アニメーションーーそれも最新のアニメーションーーの技術と演出によって,現実よりも自由に運動する。トットちゃんというキャラクターは,その半身をアニメーションという媒体の中でいっそう自由に解き放つ。このキャラクターの魅力の一端はそこにある。
リトミック:生命のリズム
1928年,子どもの自主性を重んじる「自由主義教育」を標榜した手塚岸衛は,その理念を具現化すべく「自由ヶ丘学園」を創立する。現在の「自由が丘」の駅名・地名の由来となった学校だ。1936年,手塚は志半ばにして病死。その後1937年に,自由が丘学園の幼稚園と小学校を引き継ぐ形で小林宗作(小林先生)が創立したのが,『トットちゃん』の舞台となる「トモエ学園」である。トモエ学園は,当初から自由を醸成する風土の中で立ち上がったのだ。
小林は「トモエ学園」創立以前,1923年と1930年の二度に渡って渡欧し,エミール・ジャック=ダルクローズから「リトミック教育」という音楽教授法を学んでいる。*3 ダルクローズが展開したリトミック教育は,「リズム運動」「ソルフェージュ」「即興」を三本柱とし,身体的感覚によって児童の音楽的感受性と創造性を養うことを目的とした教授法である。ダルクローズは著書の中で以下のように述べている。
音楽家として一人前になるには,子どもは,その本質が身体的なのと精神的なのと両方の原動力と資質,すなわち,一方には耳,声,音の意識を,他方には身体全体(骨格,筋肉,神経)と身体のリズムの意識を併せもたねばならない。 *4
とりわけダルクローズは,身体を用いたリズム感覚の会得の重要性を強調している。
音楽を味わせ,好きにさせるには,子どものうちに聴く力を育成するだけでは充分ではない。音楽において,最も強烈に感覚に訴え,生命に最も密接に結びつく要素というのは,リズムであり,動きだからである。 *5
さらにダルクローズは,リトミックを音楽教育の一方法にとどめず,児童の人格形成と社会性育成の根幹を成すものとみなしていた。
すべて健全な教育法では,すなわち,身体の精神への,精神の身体への,感覚の思考への,あるいはその逆の,密接な相互への働きかけというものに基礎を置いているすべての教育法にあっては,音楽や音楽に依拠している芸術に高い位置づけがあてがわれていることを認めることができよう。*6
リトミックによって心身を調和させ,子どもの感受性と人格を養うというダルクローズの教育理念は,当時の音楽教育に疑念を抱いていた小林に深く影響を及ぼした。二度目の留学から帰国した小林は,ダルクローズの方法を独自のものとして消化・吸収し,「トモエ学園」で実践していく。映画の中で描かれていたあのシーンである。
小林先生がピアノを弾き,子どもたちがそれに合わせて思い思いの動きをする。途中でわざと拍子を変え,子どもたちの心と身体にリズムの概念を理解させる。しかしそこには,メトロノームに合わせるような息苦しい強制はない。一人ひとりの子どもが,それぞれのできる範囲で身体を動かしている。そこには〈自由〉がある。
ちなみに小林は,自分の子どもが何かを口ずさみながら自然に身体を動かして楽しんでいる様子を目にしたことを回想している。*7 彼にとって,自然で自由なリズムは子どもの生命エネルギーの根源のようなものだったのだろう。この小林であれば,机のフタをパタパタ開け閉めするトットちゃんを見て退学を促すどころか,むしろ手を叩いて歓喜したはずだ。
トットちゃんと小林宗作は,あたかも何かの符号のように奇跡的に出会う。この出会いはトットちゃんの自由な身体を大いに解放し,その人格形成にも深く影響したことだろう。しかしトットちゃんは,ただ単に天真爛漫に自由を謳歌するだけではない。この物語の最も強いドラマ性は,この自由な身体=トットちゃんが〈病〉〈死〉〈戦争〉という“他者”と邂逅し,変化していく点にある。
ふれあう手:トットちゃんと泰明ちゃん
自由なトットちゃんは,病によって自由を奪われた泰明ちゃんと出会う。この出会いのシーンは,本作の中でも一際印象的に描かれている。
泰明ちゃんは小児麻痺を患ったため,手足が不自由である。そのことを知ったトットちゃんは,自分の手のひらを泰明ちゃんの手のひらに優しく重ね合わせる。トットちゃんの手の動きがこの上なく細やかにアニメートされている。まるでトットちゃんの身体と泰明くんの身体が同期し,共鳴し合うかのような美しいカットである。*8
八鍬新之介監督は,企画段階から「泰明ちゃんとの交流を経てトットちゃんが成長していく物語を描きたい」という思いを黒柳に伝えていたそうだ。*9 おそらくこの手のカットは,2人の心のふれあいが本作のライトモチーフになることを暗示するものとして挿入されたのだろう。同時に,2人の関係性において〈身体〉が大きな意味を持つことをも予示している。
手と足に麻痺が残る泰明ちゃんは,普段みんなと一緒に散歩に行かず,自由時間はたいてい本を読んで過ごしている。泰明ちゃんは,自身の身体の“不自由”という状況を受け入れているのだ。
トットちゃんはーートットちゃんらしい強引さでーーそんな泰明ちゃんの身体を〈自由〉へと解放しようとする。自分が感じている世界と同じ世界を,彼にも感じて欲しいと願いながら。いくつかのシーンを見てみよう。
小さな抵抗
1つめは「水泳」のシーンだ。
トモエ学園の水泳の時間では,(強制ではないが)水着を着用せず全裸でプールに入ることが推奨されていた。服を脱ぐことを躊躇う泰明ちゃんにトットちゃんは「恥ずかしくなんかないわよ。みんな,一緒でしょ?」と言いながらプールに連れ出す。恐る恐るプールの中に入った泰明ちゃんは,自分の身体が軽くなったように感じる。この後,作画は水彩画のようなタッチの画風(原作の挿絵に使われているいわさきちひろの絵によく似ている)に変わり,幻想的な雰囲気の中,泰明ちゃんは水中を自由に泳ぎ回る。トットちゃんの導きと浮力という物理的な力によって,泰明ちゃんは束の間,身体の自由を得る。この一連のシーンもとても美しい。
2つめは「トットちゃんの木」のシーンだ。
トットちゃんは自分専用の木登り用の木を“所有”しており,それを「トットちゃんの木」と名付けていた(原作によれば,他の生徒も自分専用の木を“所有”していたらしい)。ある日トットちゃんは,「トットちゃんの木」に泰明ちゃんを「招待」しようと決意する。
トットちゃんはハシゴを木に立てかけて泰明ちゃんに登らせようとするが,うまくいかずに落ちてしまう。すると今度は物置から脚立を引っ張り出してきて木の側に立て,泰明ちゃんを押し上げようとするが,やはりうまく行かない。トットちゃんは自分が先に木に登り,泰明ちゃんを引っ張り上げようとする。先述の「ふれあう手」がリフレインされる。トットちゃんはんとかして泰明ちゃんを引き上げ,「招待」に成功する。泰明ちゃんは「木の上から見た風景」という世界をトットちゃんと共有する。
ちなみにこの作品は,〈重力〉ないし〈落下〉という現象をきめ細かく描写している点も注目に値する。椅子から立ち上がる小林先生の所作,男の子が網棚にランドセルを投げ込む際の軌道,そしてトイレの落とし物…
アニメーションにおいて,〈重さ〉の演出は極めて重要だ。それはキャラクターや事物がその世界の中に確かな重量をもって定位していることを示す記号でもある。細部において〈重さ〉が丁寧に描かれているからこそ,それに抗い木に登ろうとするトットちゃんと泰明ちゃんの〈小さな抵抗〉にも説得力が増す。本作のアニメーション技術が優れている所以である。
3つめは「雨の中のダンス」のシーンだ。
トットちゃんと泰明ちゃんが雨の中お腹を空かせながら「よく噛めよ」の歌を歌っていると,国民服を着た男性に「卑しい歌を歌ってはいけないよ。君たちも銃後を守る立派な小国民だろう」と怒られてしまう。泣き出すトットちゃんを見た泰明ちゃんは,水たまりの中で懸命にジャンプして,水の音で「よく噛めよ」リズムを奏でる。まもはく2人は笑顔を取り戻し,まるで映画『雨に唄えば』のようにクルクルと踊り始める。
ここでは戦時下の〈制約〉に対する子どもたちの〈小さな抵抗〉が示されている。“贅沢は敵だ”という同調圧力の中で社会が色彩を失っていく中,2人の空想の中で彩られた商店街の灯りが美しく映える。
最後に「トモエ学園いい学校」のシーンを見てみよう。
ある日のこと,他校の生徒が学園の前で「トモエ学園ボロ学校/入ってみてもボロ学校」と囃し立てにやって来る。彼らは泰明ちゃんの身体を見ると「そんな身体でどうやって戦う?兵隊になれない穀潰し!」と悪態をつき,石を投げつけてくる。トモエ学園の生徒たちは「ケンカはだめ」という校長先生の言いつけを守るべく,「トモエ学園いい学校/入ってみてもいい学校」と歌いながらスクラムを組んで迫り,彼らを撃退する。
戦時下の価値観に染まってしまった子どもたちに対する,トットちゃんたちの〈抵抗〉。トモエ学園の自由な気風を擁護しようとする彼ら/彼女らの中には,確かに〈自由の力〉が宿っている。
自由で力強いエラン・ヴィタールは,トットちゃんだけでなく,トモエ学園の生徒全員の中に育まれていた。自分の運命を受け入れてしまっていた泰明ちゃんですら,腕相撲でトットちゃんがわざと負けた時,顔を真っ赤にして激怒したのだ。制約や束縛といったものに抗う力強い生命力が,この作品の子どもたちの中に美しく漲っている。
人は置かれた状況に身を委ねつつも,時としてささやかに抵抗し,また身を委ね,また抵抗する。そのようにして人は少しずつ前進して行く。それが人の人生の,そして人の歴史のダイナミズムなのかもしれない。そして人は誰もが,トットちゃんと同じ〈自由な生命力〉を内に秘めている。それは泰明ちゃんの中にも,トモエ学園のみんなの中にも,そして僕らの中にもある力なのだ。
やがてトットちゃんはひよことお別れしたのと同じように,泰明ちゃんとお別れしなければならなくなる。トットちゃんにとって2つの〈死〉は,“命がなくなったこと”というより,“命が確かにそこにあったこと”の証として記憶に刻まれるだろう。例えどれだけ短くとも,自由で伸びやかな生がそこにあったことの証として。
僕たちの〈トットちゃん〉
泰明ちゃんの葬儀を飛び出したトットちゃんの目に,紛れもない〈戦争〉の影が映る。2つの〈死〉の悲しみに,人類の〈タナトス〉の無情が重ね合わせられる。ある意味で非常に残酷なシーンだ。しかしこの時,黒柳徹子のナレーションは何も語らない。ただトットちゃんの前に〈戦争〉の具体的な表れが突きつけられるだけだ。
ちなみに,『トットちゃん』の原作小説は黒柳徹子の自伝という形式をとっているが,その叙述には少々興味深い特徴がある。トットちゃんに寄り添い,トットちゃんの目線で語る叙述と,トットちゃんを客観視する叙述がしばしば混在するのである。その一例を見てみよう。トットちゃんの父が所属するオーケストラの指揮者・ローゼンシュトックに関する記述である。
ローゼンシュトックさんは,ヨーゼフ・ローゼンシュトックといって,ヨーロッパでは,とても有名な指揮者だったんだけど,ヒットラーという人が,こわいことをしようとするので,音楽を続けるために,逃げて,こんな遠い日本まで来たのだ,とパパが説明してくれた。パパは,ローゼンシュトックさんを尊敬しているといった。トットちゃんには,まだ世界情勢がわからなかったけど,この頃,すでに,ヒットラーは,ユダヤ人の弾圧を始めていたのだった。もし,こういうことがなかったら,ローゼンシュトックは,日本に来るはずもない人だったし,また,山田耕作が作った,このオーケストラも,こんなに急速に,世界的指揮者に依って,成長することもなかったのかも知れない。 *10
第1文と第2文では「ローゼンシュトックさん」や「パパ」という呼称を用い,トットちゃん目線で叙述されている。ところが下線を引いた第3文以降では「ローゼンシュトック」という呼称に変わり,ドキュメンタリーな文体に変わっている。
こうしたことが生じる理由は,おそらく本作が自伝という形式をとりながら,「私」という主語を使わずに,「トットちゃん」と呼称することで自身を客体化していることが1つの理由だと考えられる。「トットちゃん」という主語は,トットちゃんとそれを読む子どもたちの目線に合わることを可能にする一方で,同時にそれを対象化する〈大人=黒柳〉の目線を導入することも可能にする。その意味で,原作は再帰的で内省的な描写スタイルをとっている。
一方アニメ映画では,映画冒頭とラストに黒柳のナレーションが入るのみで,〈大人=黒柳〉が姿を現す場面はほとんどない。先ほどのローゼンシュトックの登場シーンでも,彼がユダヤ人であるということすら説明されず,場面の解釈は視聴者の知識と読解力に完全に委ねられているのだ。
先述した泰明ちゃんの葬儀後のシーンもそうなのだろう。アニメ映画では,黒柳はあえて身を引き,あくまでもトットちゃんの目が捉えたものだけを視聴者に伝達している。この時、トットちゃんは何を思ったか,どんな気持ちだったか。それを解釈する権限と義務は,完全に視聴者に委ねられているのだ。
ひょっとすると黒柳は,〈トットちゃん〉を自分の分身としてではなく,1つの自律したキャラクターとして僕らの手に差し渡したのかもしれない。それも,現実そのものから部分的に乖離したアニメ的身体という形で。だとすれば,現代に生きる僕らは,現代という時代的文脈の中で改めて〈トットちゃん〉を捉えるべきなのだろう。〈自由〉とは何なのか。それを奪う〈暴力〉とどう対峙すればいいのか。〈トットちゃん〉という特殊なキャラクターの持つ,その普遍性を噛み締めつつ。
作品データ
*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど
【スタッフ】
原作:黒柳徹子/監督・脚本:八鍬新之介/共同脚本:鈴木洋介/キャラクターデザイン・総作画監替:金子志津枝/イメージボード:大杉宜弘,西村貴世/車輌設定:和田たくや/美術設定:矢内京子/美術監督:串田達也/色彩設計:松谷早苗/音響監督:清水洋史/音響効果:倉橋静男,西佐知子/音楽:野見祐二/アニメーション制作:シンエイ動画
【キャスト】
トットちゃん:大野りりあな/小林先生:役所広司/トットちゃんのパパ:小栗旬/トットちゃんのママ:杏/大石先生:滝沢カレン/泰明ちゃん:松野晃士
作品評価
商品情報
*1:なお,1982年には黒柳自身の語りとオーケストラによる音楽劇『窓ぎわのトットちゃん』が初演され,現在ではオンデマンドCDとして販売されている。また2017年には黒柳の半生を描いたTVドラマ『トットちゃん!』が放送され,『窓ぎわのトットちゃん』の中のエピソードも一部抜粋されている。しかし『窓ぎわのトットちゃん』そのものがまとまった形で映像化されたのは今回のアニメ映画が初である。
*2:『窓ぎわのトットちゃん』劇場用プログラムより。下線は引用者による。
*3:日本におけるリトミックの受容と普及については,板野晴子『日本におけるリトミックの黎明期 ー日本のリズム教育へリトミックが及ぼした影響ー』,ななみ書房,2016年などを参照。
*4:エミール・ジャック=ダルクローズ(板野平監修・山本昌男訳)『リズムと音楽と教育』,p.43,全音楽譜出版社,2003年。
*5:同上,p.73。
*6:同上,p.114。
*7:板野晴子上掲書,p.96。
*8:なお,こうした描写は原作の中にはない。
*9:劇場用プログラムより。
*10:黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』,pp.98-99,講談社,1981年。下線は引用者による。