アニ録ブログ

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劇場アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝ー永遠と自動手記人形ー』(2019年)レビュー[考察・感想]:固有名たちよ,永遠に

*このレビューはネタバレを含みます。 

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公式HPより引用 ©暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

www.violet-evergarden.jp

本作で監督を務めるのはTVシリーズで演出を担当していた藤田春香。シンプルな物語・画面構成・感情表現を基調としながらも,ヴァイオレットの役割の変換や2.31:1の画面比率の採用など, TVシリーズとははっきり差別化を図っており,劇場アニメとして見応えのある作品に仕上がっていたと言える。 

 

あらすじ

「自動手記人形」ヴァイオレット・エヴァーガーデンは,ある女学校で寄宿生活を送る良家の娘,イザベラ・ヨークの元を訪れる。その「任務」は手紙の口述筆記ではなく,家庭教師であった。牢獄のような女学校で鬱屈した生活を送っていたイザベラは,次第にヴァイオレットに心を許し,やがて二人は友達として心を通わせるようになる。家庭教師業務の最終日,イザベラはかつて共に暮らしていた妹のテイラーに宛てた手紙をヴァイオレットに託す。そこには姉妹を結ぶ「魔法の言葉」が書かれていた。

〈学ぶ〉主体から〈教える〉主体へ

ヴァイオレット・エヴァーガーデンは,ギルベルト少佐が今際の際に遺した「愛してる」という言葉の意味を知ろうと必死になっている。そもそも彼女には,軍隊のコマンドのような具体的行為を伴わない抽象概念を理解することが困難なのだ。しかし実際,〈愛〉が分からないのはヴァイオレットだけではない。彼女が出会った顧客たちも,C.H郵便社の仲間たちも,そして当然僕らも,「愛とは何か」という問いに答える術を持っていない。人は“恋人への愛”,“家族への愛”,“隣人への愛”といった個々の事例に基づき,〈愛〉という概念を帰納的に“知っているふり”をしているだけだ。それはある種の対症療法であり,〈愛〉という高度に抽象化された象徴をそれ自体として理解しているわけではない。それが抽象概念の宿命だ。

ギルベルトという愛の対象を失ったヴァイオレットは,手紙の代筆によって他者の愛を媒介者として〈愛〉を理解するという,迂遠な方法をとることになる。しかし他者の愛であるからこそ,そこには豊穣な内実が内包される。彼女の心の中には,〈愛〉という象徴の下に,様々な物語が蓄積されていくことになる。以上が,『永遠と自動手記人形』に至るまでの前日譚である。

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TVシリーズでは主に〈学ぶ〉主体であったヴァイオレットだが,『永遠と自動手記人形』では〈教える〉主体へと役割を変えている。彼女は持ち前の知性と運動神経を活かし,「家庭教師」としてイザベラにマナーやダンスを教える。おそらくその演出意図もあってだろう,ヴァイオレットはイザベラよりも身長が高く設定され,ダンスシーンなどでは常にヴァイオレットがイザベラを見下ろす構図になる。男性キャラを見上げる構図の多かったTVシリーズとは綺麗なコントラストを成している。周囲から「騎士姫」と呼ばれる彼女の流麗な立ち居振る舞いは,TVシリーズの“可憐な元戦闘少女”とはまったく違った魅力を放っている。

さらに物語の後半では,彼女はイザベラの代理としてテイラーに文字を教えることになる。これは,かつて自分に言葉を教えてくれたギルベルトへの〈同化〉に他ならない。「教えたい・守りたい」という他者の願望を自己の中に取り込み,別の他者に対してそれを実現する。こうした微笑ましい光景に,ヴァイオレットの僅かだが確実な成長が見てとれるだろう。

〈エイミー〉:固有名という永遠

しかしヴァイオレットの象徴をめぐる旅は終わったわけではない。彼女はイザベラに「君は優しいね」と言われ,やや困惑気味に「私はただ真似をしているだけです」と答える。未だ彼女にとって,〈優しさ〉のような抽象概念は十全に理解し得ていない。ヴァイオレットはイザベラに家庭教師として接しながら,〈優しさ〉〈友達〉といった抽象表現を彼女から学ぶ。ヴァイオレットはまだ〈愛〉という象徴へ至る旅の途上にいるのだ。

そして『永遠と自動手記人形』では,ヴァイオレットが流離うこの漠とした象徴世界に,1つの貴石が投じられることになる。〈固有名〉である。 

かつてイザベラは「エイミー」という名で,戦災孤児として貧民窟で生活していた。彼女は身寄りのない孤児,テイラーを引き取り,姉妹として貧しくも幸せな生活を送る。ところがある日「エイミー」の実父が姿を現し,テイラーの幸福を約束する代わりに,過去の素性と名前を捨ててイザベラ・ヨークとして生きるよう迫る。テイラーの幸福を実現すべく,「エイミー」を捨ててイザベラとなった彼女は,テイラーの元を永遠に去り,ヨーク家の跡取りとしてその後の人生を生きる決意をする。

しかしイザベラは「エイミー」という固有名を完全に捨て去ることはできなかった。彼女は「エイミー」の名を「魔法の言葉」として手紙に書き記し,テイラーの元へ届けるようヴァイオレットに依頼する。手紙を届けたベネディクトによって語り聞かされた「エイミー」という魔法の言葉は,文字すら知らないテイラーの心の中にはっきりと刻み込まれることになる。3年後,テイラーは「エイミー」という魔法の言葉の指示対象を探すべく,C.H郵便社のヴァイオレットの元を訪れる。

固有名は普通名詞と違い,意味を伴わずに対象を直接指示する。普通名詞が個々の差異を捨象しながら一般化していくのに対し,固有名は差異そのものを指示する。もちろん,エイミーという名自体は世の中にたくさん存在するが,テイラーにとって「エイミー」は「“この”エイミー」に他ならず,いかなる他の概念にも翻訳不可能である。

抽象化も象徴化も帰納的理解もできず,意味も持たず,翻訳不可能で,他者と共有できず,社会的に流通もしない。まさしくテイラーにとって唯一無二のかけがえのない言葉。それが「エイミー」という固有名なのだ。

イザベラは〈戦争孤児〉から〈良家の子女〉へ,そして〈妻〉へと社会的役割を変えていくだろう。しかしそれは,ヴァイオレットの〈学ぶ主体〉から〈教える主体〉への変化と同様,あくまでも一般的に起こりうる役割交換に過ぎない。一方,「エイミー」という固有名の〈エイミー性〉は,いつまでも永遠に変わることがない。どんな変化にも耐え得る不変の言葉。だからこそ,それは二人にとって「魔法の言葉」なのであり,それこそがこの物語における「永遠」なのである。

そしてそれが,ヴァイオレットにとって「ギルベルト」という名であることは言うまでもない。彼女は〈愛〉という象徴を巡る旅の途上,イザベラとの交流を媒介者としながら,「ギルベルト」という固有名と再会を果たしたのだ。

変化と永遠

戦中・戦後の時代を舞台としたTVシリーズと異なり,本作で描かれる時代は比較的平和であり,血なまぐさい戦闘シーンなどは一切ない。とはいえ,そこに描かれているのは無時間的なユートピアなどではなく,希望に満ちてはいるが酷薄な変化の時代だ。戦災孤児の生活と生々しいヴァイオレットの義手の描写によって戦中の残酷さを暗示しつつ,電波塔の建設,電気の導入,ベネディクトのバイクの進化などから,技術とメディアの進化と,世界が急変していく様を丁寧に描いている。そして,そのように流転する世界の中にあってこそ,〈固有名〉という永遠が珠玉のような輝きを放つのだ。

そしてそのようにこの作品を観たとき,ある事実に気付かされる。

『永遠と自動手記人形』における〈固有名〉は,この作品の制作に携わったスタッフたちの〈固有名〉でもあるのだ。本作のエンドロールには,先の放火殺人事件の犠牲者となったスタッフを含め,制作に参加した全員の名前がクレジットされた。これから本作をご覧になる人,後日発売されるであろうビデオソフトをご覧になる人は,エンドロールに流れる彼ら/彼女らの〈固有名〉に目を凝らし,その輝きを受け取って欲しい。

 

固有名たちよ,永遠に。

 

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(2020年)に関しては以下の記事を参照頂きたい。

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作品データ

原作:暁 佳奈

監督:藤田春香

シリーズ構成:吉田玲子

脚本:鈴木貴昭浦畑達彦

キャラクターデザイン・総作画監督:高瀬亜貴子

制作:京都アニメーション

(リンクはWikipedia,もしくはアットウィキの記事)

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4.5 4 5 4
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 4 5
独自性 普遍性 平均
3 4 4.2
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