元々のきっかけは夏目真悟監督『Sonny Boy』(2021年)だった。このアニメは物語もさることながら,楽曲の使い方がとてもいい。作品にすっかり惚れ込んだ僕は,アニメ視聴後,さっそくサントラCDを購入した。
落日飛車,VIDEOTAPEMUSIC,ザ・なつやすみバンド,ミツメ,Ogawa & Tokoro,空中泥棒,カネヨリマサル,toe,銀杏BOYZ。国内外の個性豊かなアーティストたちの楽曲を聴きながら,パンチの効いたあれやこれやのシーンを思い出す。一つひとつの曲の粒立ちがいいので,そうした聴き方が一際楽しい。
しかし楽曲にはたいへん満足したものの,何かが物足りない。そう,ジャケットだ。すでに発売されていたアナログ盤のジャケットに,キャラクター原案を手がけた江口寿史さんのイラストが使われていることは知っていた。『Sonny Boy』という作品にとって,江口さんのデザインの貢献度は極めて高い。アナログを聴く環境はないけれど,このアートワークを存分に堪能するためならばと思い,文字通り"ジャケ買い"をしてしまったのだ。
その後しばらくはニヤニヤしながらジャケットを眺めるだけの生活だったが,山田尚子監督『平家物語』(2022年)のサントラアナログ盤を衝動買いしたことをきっかけに(アナログ盤には"モノ"としての音楽の所有欲をかき立てる何かがあることは言うまでもない),どうせならと一念発起してアナログ環境を揃えることにした。僕はこのところ,CDかハイレゾ音源のダウンロードかストリーミングで音楽を鑑賞してきた。アナログ盤は実に数十年ぶりの"回帰"である。
僕は決してオーディオマニアというわけではない。耳にもそれほど自信があるわけではない。だから店頭まで行って店員にアドバイスを受けたり,それぞれの機器を聴き比べしたりといったアナログな労力は省くことにし,ネットの口コミに全権を委ねることにした。このご時世,アナログへの回帰はデジタルに解決するのが一番手っ取り早い。
基本コンセプトは“ミドルクラスで揃える”だ。ハイエンドはもちろん金がかかるし,沼にハマると戻ってこれなくなる。かと言ってあまりに安価な機器にすると後で後悔しそうだ。それぞれに5万円前後,という大まかな基準を立てて機器選びをすることにした。
ターンテーブルは当初,TEACのTN-3B-Aを考えていたのだが,まごまごしているうちに欲しかった白い筐体が売り切れてしまった。いっそのこと別のメーカーのものをということで,ネットでの評判もほどほどによいオーディオテクニカのAT-LPW50PBを選んだ。プリメインアンプはDENONのPMA-600NE。スピーカーはDALIのOBERON1だ。どれもネットでの口コミは悪くなく,総じて「コスパがよい」という評価が多い。
それぞれの性能の評価については,そもそも聴き比べなどをしていないのだから,ここでは割愛させていただきたい。ここで素人の感想などを述べるまでもなく,ネットにはたくさんの玄人たちがきっちりとレビューしてくれているので,そちらを参照頂ければと思う(その代わりアニメのレビューなら任せてほしい。)
しかし,やはりアナログはいい。レコードの音は「ウォーム」と評されることが多い。確かにそれもあるのだが,それ以外にも,袋から出し入れしたり盤面をメンテナンスしたりする面倒や,静電気や埃によって生じるあのプチプチ音など,純粋に音楽を聴くということからすれば"ノイズ"とみなされてしまうような要素がアナログにはたくさんある。そしてそれがいい。レコードに帰ってくると,音楽を聴くことが,データの受信ではなく,フィジカルな行為なのだということを実感できる。
子どもの頃,初めてCDを聴いた時には,レコード特有のプチプチ音がまったくないクリアな音に感動したものだ。そこには,プチプチ音に邪魔されない,純粋な音楽体験が確かにあった。しかしCDは,プチプチ音とともに,可聴帯域外の音やメンテナンスの面倒など,様々な要素を"ノイズ"として音楽鑑賞から奪い去っていった。僕は,そしてアナログに回帰した多くの人々は,その失われたものをもう一度取り戻そうとしている。
哲学者の千葉雅也は,最近出版した『現代思想入門』(講談社現代新書,2022年)の中で,「秩序からズレるもの」=「差異」に目を向けた人物として,ジャック・デリダ,ジル・ドゥルーズ,ミシェル・フーコーらを紹介している。人間は近代合理主義の名の下に,ズレ,差異,異常,狂気といったものを"ノイズ"として社会から排除してきた。しかし社会がそのようにしてクリーンになればなるほど,豊穣なダイナミズムは失われ,社会は硬直化していく。"ズレ"はそうした硬直状態にある社会に揺さぶりをかけるモーメントなのだ。
音楽鑑賞も同じなのだと僕は思う。プチプチ音,可聴帯域外の音,メンテナンスの面倒=ズレは,クリーンな音を阻害する"ノイズ"として排除された。しかし今,多くの人が,それら"ノイズ"の中に音楽鑑賞の本質(少なくともその一端)があると気づき始めている。
メディアの歴史は“交代”ではなく“並存”だと僕は思う。つまり,レコードやカセットがCDに取って代わられ,CDがデータに取って代わられる,というリニアな進化が起こっているのではなく,レコードとカセットとCDとデータが同時代に存在し,ユーザーがそれぞれのメディアの利点を考慮しながら,自分の好きなものを選択できる状況が実現しつつある。そんな状況が現代的なのだと思う。
同じことはアニメという媒体についても言えるかもしれない。2000年代以降,アニメーション制作の現場ではデジタル化が進行していった。しかし従来のように,紙の上に鉛筆で原画を描くことを好むアニメーターは今でも少なくないし,そうした作画を好む視聴者も一定数いる。一口に“アニメ”と言っても,その中にアナログな手描き,デジタルな手描き,3DCGといった様々なメディアが並存していて,作り手と受け手が好きなものを選択できる。アニメはそのメッセージ(内容)が多様であるだけでなく,メディア(媒体)として多様な形態を備えているのだ。そういえば,『Sonny Boy』の背景美術も絵具を使った手描き=アナログだった。
今,僕は牛尾憲輔さんの手がけた『平家物語』のサントラを毎日のように聴いている。特にアニメ史に残るあの名ラストシーンで流れた「requiem phases」は何度聴いても聴き飽きることがない。
僕はこのアナログ盤をこれからも毎日,文字通り擦り切れるほど聴くだろう。聴けば聴くほど,音溝は擦り減り,プチプチ音が増えていくだろう。数年後には今と同じようなきれいな音は出ないかもしれない。しかしそれでいいのだ。『平家物語』の音楽は恒久的なデータとして常にどこかに存在し続けるだろうから,僕の手元にあるこの盤が経年劣化することに問題はない。しかも僕はプチプチ音とともに音楽を聴くことをー子どもの頃とは違ってー主体的に選んだのだ。今ここにある『平家物語』のアナログ盤は,年とともにプチプチ音というノイズを増していきながら,元の音源から否応なしに"ズレ"ていく。それもまた,諸行無常である。