アニ録ブログ

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TVアニメ『平家物語』(2022年冬)レビュー[考察・感想]:〈日常〉を見る,〈無常〉を語る

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。

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『平家物語』公式HPより引用 ©︎「平家物語」製作委員会

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山田尚子監督『平家物語』は,古川日出男の現代語訳をもとにしつつ,山田独自の感性でこの軍記物語を再解釈したアニメ作品である。オリジナルのキャラクター「びわ」という観察主体を導入することにより,『平家物語』に内在する叙情的な側面を際立たせることに成功した傑作だ。

 

あらすじ

平安末期,栄華を極めていた平家一門の横暴を見つめる一人の少女がいた。名は「びわ」。その青く妖美な眼は,「先」,すなわち未来を見通す力を持っていた。平家に父を殺されたびわは,亡者を見る眼を持つ平重盛に拾われ,やがて来る平家の滅亡を告げる。

 

〈見る〉を観る

『リズと青い鳥』の制作開始時,山田尚子監督は「ガラスの瓶の底をのぞいたような世界観」というディレクションを提示したという。*1 いかにも山田らしいこの直喩には,子どものように無邪気な好奇心,「のぞく」という行為の悪戯っぽさ,親密な隠密性,そして日常の焦点をわずかにずらして非日常に変換する感性といったものが凝縮されている。そしておそらくそれは,極端に浅い被写界深度の撮影,色収差,ピン送り,青みがかった色彩設計といった,多彩な視覚効果やカメラワークによって演出されている。撮影監督の髙尾一也や色彩設計の石田奈央美らが,その要求に十二分に応えていたことは言うまでもない。

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『リズと青い鳥』より引用 ©︎武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

もちろん,そうした演出効果そのものは近年のアニメ作品では珍しくなくなっている。とりわけデジタル制作と撮影技術の進歩した現在では,撮影効果のインフレが起きていると言っても過言ではない。しかし山田作品の画作りは,単なる表面的な装飾であることを超え,作品全体の世界観と深く関わり合いながら,それを鑑賞者に視覚的に伝達する確かな効果を持っている。おそらく『リズと青い鳥』を観た人にとって,「ガラスの瓶の底をのぞいたような世界観」という言い回しほどきれいに胸に落ちる表現もないだろう。多くの部員に目を行き渡らせた群像劇的な『響け!ユーフォニアム』と比べ,『リズと青い鳥』は,みぞれと希美だけの関係性と,2人の心象世界にフォーカスを当てた作品なのだから。*2 

『リズと青い鳥』を観る人は,特殊な視覚効果によって,透明でパッシブな傍観者であることをやめ,みぞれと希美の関係性をアクティブに「のぞく」観察主体になったかのような感覚を得る。そして『リズと青い鳥』に限らず,『たまこまーけっと』(2014年)『映画 聲の形』(2016年)などの代表作を通覧した時,山田作品において〈見る〉という行為が特別な意味づけをなされていることがわかるだろう。様々な視覚効果やカメラワークは,自分が物語世界を〈見ている〉ことを鑑賞者に否応なしに意識させる。〈見る〉行為の意識化〈見る〉ことそのものを観ること。視覚効果は,そのための装置として機能しているのだ。

 

「びわ」を呼びだす

そして『平家物語』は,『リズと青い鳥』ほどリッチな効果を用いてはいないにもかかわらず,〈見る〉という行為を主題レベルにまで前景化したと言える点で,山田尚子作品の中でも特別な位置を占める作品と言える。

本作でも,すでに第一話冒頭において各種の視覚効果が用いられている。

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左・中:第一話「平家にあらざれば人にあらず」アヴァンより引用/右:オープニングアニメーションより引用 ©︎「平家物語」製作委員会

アヴァンでは,沙羅双樹の花のカットでピンボケとライトリーク(光漏れ)の効果が施されている。またピンボケはタイトルバックにも用いられている。これら以外にも,浅い被写界深度や前景から後景へのピン送りなど,様々な視覚効果が本編の随所に見られる。これらを観て“まさしく山田流の演出だ”と感じた視聴者も多いことだろう。こうした効果によって,鑑賞者は〈見る〉ことそのものを意識するよう促され,〈見る〉ことをメタレベルで認識するようになる。

また本作では,人物の眼をクロースアップしたカットも多用されている。まるでカメラアイがカメラアイを再帰的に観察するかのように。当然,びわの眼のクロースアップが最も多いが,重盛,維盛,清盛などの眼のクロースアップも見られる。場合によっては,そうしたカットの前後に当該人物の主観視点のカットが挿入される。こうして,客観視点と主観視点が作品内で折り重ねられ,〈見る〉行為がますます意識されるようになる。同時に鑑賞者は作品内の人物,とりわけ「びわ」の眼を通して,『平家物語』を内部から〈見る〉視点を得る。

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左:びわの眼 中:重盛の眼 第一話「平家にあらざれば人にあらず」より引用/右:維盛の眼 第五話「橋合戦」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

さらに〈見る〉行為は,びわの「先=未来が見える眼」というキャラクターの特性とも重ね合わせられる。

本作の底本となった現代語訳を手がけた古川日出男は,「前語り」と「訳者あとがき」の中で,琵琶法師が『平家物語』を語り広めていったことに言及した上で,「私は無数の語り手を呼びだした」と述べている。*3 実際,古川の訳文では,文体が常体から敬体に変化したり,語り手の一人称が「私」「僕」「手前」「俺」に次々と変化したりと,かなり大胆な"超訳"がなされている。ここでは,もはや語り手(琵琶法師)は透明な媒体であることをやめ,それぞれが"語る意志"を持った主体と化しているかのようだ。

山田はこの「複数の語り手」を「びわ」という単一の主体へと凝集した。さらにびわは,琵琶法師=語り手であると同時に,その特殊な眼によって平家一門の生き様と未来を〈見る〉主体として物語内に呼び出される。そしてその意味でも,びわの〈見る〉眼は僕ら鑑賞者自身の〈見る〉眼と重ね合わせられている。多くの日本人は,『平家物語』の結末について義務教育の時点で"ネタバレ"を喰らっている。だから『平家物語』のアニメーションの鑑賞を開始した時点で,僕らはすでにそのあらましを知っている。それはちょうど,平家の「先(未来)」が見えるびわの視点と重なる。びわの物語への導入は,僕ら視聴者の視点の導入に他ならないのだ。

では,びわ=私たちの眼は,『平家物語』というアニメーションの中に何を〈見る〉のだろうか。

 

〈日常〉から〈無常〉へ

びわというキャラクターの導入による最大の効果の1つは,平家の〈日常〉の描出を可能にした点にある。

まず面白いのはオープニングアニメーション(絵コンテ・演出:山田尚子/作画監督:小島崇史)だ。羊文学の爽やかなオープニングテーマ「光るとき」とともに,びわと平家の日常的な風景が明るいトーンで描かれる。ちなみに本作の本編は,人物の所作等を含め細部まで歴史監修が行き届いていると思われるが,*4 このオープニングアニメーションでは,徳子や重盛が,とても平安末期の軍記物語とは思えない,現代ドラマの登場人物のような所作を見せる。

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オープニングアニメーションより引用  ©︎「平家物語」製作委員会


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第一話「平家にあらざれば人にあらず」の後半では,びわと維盛・資盛・清経三兄弟との日常的な風景が愉快に,かつ美しく描かれている。びわが資盛らとじゃれ合い,維盛と同じ風を感じる姿がとても印象的だ。びわが平家と同じ空気の中に存在していることが確かに感じられるシークエンスである。

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第一話「平家にあらざれば人にあらず」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

続く第二話「娑婆の栄華は夢のゆめ」はいわば“女子回”だ。そしてこの話数が本作において持つ意味はとても大きい。

当初,平家に警戒心を抱いていたびわだが,徳子にはすっかり気を許している。徳子の方も寛いだ様子で,日頃口に出せないであろう身の上話や愚痴をびわに語って聞かせる。2人の様子は姉妹のように親密で,まるで『たまこまーけっと』(2013年冬)のガールズトークをのぞいているかのようでもある。

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第二話「娑婆の栄華は夢のゆめ」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

その後,びわは清盛の元を訪ねてきた白拍子の祇王と出会い,彼女に自分の母の姿を重ねる。祇王もそんなびわを愛おしく思う。食事をするびわの口元を実の母のように拭ってやる祇王の姿には,くすぐったくなるような日常の温かさを感じる。

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第二話「娑婆の栄華は夢のゆめ」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

これらのシーンは,まさしく山田の得意とする柔らかい日常感に溢れている。『平家物語』原作では描かれることの少ない平家の,それも女たちの日常が,さながら“日常系アニメ”の空気感の中で描かれているのである。

話はいったん第二話から逸れるが,山田はキャラクター原案の高野文子が提出した「静御前」の原案について「型に囚われていないというか,まるで,校則は破るものよ,とでも言っているような高野さんならではの悪戯っぽさが溢れていました」と絶妙なコメントをしている。*5 平安末期の歴史的人物と現代の学校の日常風景とを軽やかに接続してしまう山田の感性,そしてその感性に打ち響くデザインを生み出す高野の技量。『平家物語』の伝統的な読みでは決して見えてこない〈日常性〉が,この2つの才能の邂逅によって本作に姿を現していると言える。

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左:高野文子による「静御前」原案/右:高野文子がアニメを観た後に描き下ろしたイラスト:「わたしたちが描いたアニメーション『平家物語』」,pp.70-71,河出書房新社,2022年。 ©︎「平家物語」製作委員会

第二話に戻ろう。びわは出家した祇王の元を訪れた後,祇王や仏御前らの「先」を見る。清盛の「駒」であることから解放され,穏やかに祈る彼女たちの「先」を見て,びわは顔をほころばせる。この表情は,本作が祇王と仏御前の出家を“逞しく生きる女”の物語として肯定的に捉えていることを明確に表している。第七話「清盛,死す」以降の徳子の覚悟にもつながっていく重要な話数だ。

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第二話「娑婆の栄華は夢のゆめ」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

祇王と仏御前の穏やかな未来を見て,にわかに多幸感に包まれたびわは,その夜,重盛にこう告げる。

明日,あさって。これから,この先。ずっと先。もっと先。いいこともある。

この刹那,びわは自分が見た平家の末路を忘れ,終わりのない〈日常〉の幸福感を望んでいる。

しかし言うまでもなく,『平家物語』ほど"終わりのない日常"からかけ離れた物語はない。第二話は,〈見る〉ことの〈日常〉に加え,それが〈無常〉に転じていく予感を描いた話数でもある。先程の祇王のシーンに先立つ場面で,びわと重盛は次のような会話をしている。

重盛:私は子どもの頃から暗闇が恐ろしかった。見えるせいかもしれぬがな。びわ,そなたは何が恐ろしい?
びわ:先。
重盛:はっ…
びわ:わしは…先が恐ろしい。
重盛:そうか。闇も先も恐ろしくとも、今この時は美しいの。

ここでびわの「先」は重盛の「闇」と並置され,その暗い側面が強調されている。これに呼応するかのように,第二話のラストで徳子が入内するシーンでは,びわの眼に再び暗い「先」が映ってしまう。

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第二話「娑婆の栄華は夢のゆめ」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

〈日常〉から〈無常〉へ。山田は平家一門の〈日常〉をびわの目線で捉えることによって,その〈無常〉の酷薄さを際立たせる。これまで,どちらかと言えば〈日常〉を描くことが多かった山田ならではの『平家物語』解釈と言えるかもしれない。

この後,平家の〈日常〉は源氏との戦における〈死の予感〉によって侵食されていく。軍記物語である『平家物語』は,合戦シーンを一種の娯楽として提供していることは確かだ。しかしこの物語では,勇猛果敢な武将たちの勇姿ばかりが描かれているわけではない。平家には嬉々として戦に興じる兵だけではなく,〈弱さ〉を抱えた者たちがいた。『平家物語』はそんな彼らの物語でもあるのだ。

 

戦という〈無常〉,弱き者たちへの眼差し

僕らは歴史を“進歩”と捉えがちである。Aの時代の欠陥がBの時代で正され,Bの時代の不備がCの時代で補われる,といった具合に。しかしそうした見方の中では,歴史に"勝者"の姿ばかりが求められ,"弱者"への視線が決定的に欠けがちである。そのような歴史観を「勝利者」への「感情移入」として批判したのはヴァルター・ベンヤミンだったが,進歩を「瓦礫の山」に例える彼にとって,歴史は〈無常〉そのものに見えたに違いない。*6

古川日出男訳『平家物語』に収められた「解題」の中で,国文学者の佐伯真一は『平家物語』の魅力を「弱者を弱者として描き出すところにある」と述べている。*7 平家一門は栄華を極めた。その意味では確かに"勝者"である。しかし「諸行無常」「盛者必衰」という冒頭の有名な句は,この物語のフォーカスが勝者の勝利ではなく,勝者の敗北にあることを示している。佐伯の言を借りれば,『平家物語』は「敗者への鎮魂の思いに満ちた作品*8 なのである。

そうして見た時,山田版『平家物語』の中でたいへん面白い描かれ方をしている人物がいる。平維盛である。

維盛と言えば,「富士川の戦い」で水鳥の羽音に驚き,戦わずして敗走したエピソードが有名だ。あくまでも軍記物という側面から見るのであれば,"容姿端麗ではあるが戦はめっぽう下手な軟弱者"というのが一般的な評価だろう。もちろん山田版『平家物語』にも,維盛が「軟弱者」として描かれる場面はある。第二話では,鳥の羽音に驚く場面が「富士川の戦い」の伏線として描かれているし,弟の資盛から「怖がり」と揶揄されるシーンがいくつも見られる。

しかし本作の維盛の眼は,例えば知盛のような猛者には決して見えることのない,戦の恐ろしさ,その不条理をしっかりと捉えているように思える。

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第五話「橋合戦」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

第五話「橋合戦」では,維盛の目線から見た恐ろしい戦場のカットが挿入され,彼が戦へのトラウマを募らせていく様が丁寧に描かれていく。しかしそれは単に維盛を「軟弱者」としてキャラ付けしているというよりは,戦そのものの理不尽,平家の〈日常〉を犯す戦の〈無常〉への,等身大の反応を描いているように思える。

そして第九話「平家流るる」では,最終決戦である「壇ノ浦」を前にして,戦の〈無常〉は早くもクライマックスに達する。清経の入水敦盛の最期である。

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第九話「平家流るる」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

清経は源氏に追われ都落ちをする中で,「網にかかった魚」のような平家の命運に思い悩み,自ら命を断つ。敦盛は戦の功に焦る熊谷直実に首を取られ,悲劇の最期を迎える。どちらのシーンも,落ちゆく者たちの壮絶な最期を描いている。敦盛の最期は,原典でも「敦盛最期」という一節が設けられており,学校の授業でも取り扱われることが多い有名なエピソードである。一方,清経の入水については,原典での描かれ方は比較的淡白である。にもかかわらず,山田は入水に至るまでの清経の心情を実に丁寧に描き込んでいる。

そしてどちらのシーンにもびわの眼のカットが挿入されることで,透明なカメラが2人の死を“史実”として客観的に伝達するのではなく,びわという個人の眼を通してそれを〈見る〉という演出がなされている。2人の死にまつわる“史実”は,びわという抵抗素子を通過することで,大きな熱量を持った〈感情〉となって我々を揺さぶる。これに先立つ話数で,清経と敦盛の〈日常〉がびわ目線で丹念に描かれているからこそ,このシーンの〈無常〉がいっそう際立つ。これが山田の狙った「叙情詩」としての『平家物語』なのであろう。

ちなみに敦盛の首を取った熊谷直実は,我が子と同じほどの若き公達の命を奪ってしまったことを気に病み,出家への思いを募らせていく。*9 敦盛の首に刀を突き立てようとする瞬間の直実の表情には,戦の〈無情〉あるいは〈無常〉が凝縮されているようである。

 

〈見る〉ことが終わり,〈語る〉ことが始まる

かくして平家は源氏に敗れ,第十一話(最終話)「諸行無常」で時子と安徳天皇の入水が描かれるに至り,この物語の幕は閉じられる。これにて,びわの〈見る〉使命も終わる

ラストシーンは,原典で「灌頂巻」と題された挿話で締め括られる。源氏の手によって生きながらえた徳子は,その後出家し,寂光院に隠棲して祈りの日々を送っている。ある日,そんな彼女の元を後白河法皇が訪れる。徳子は己が身の上を「六道」*10 になぞらえて回顧する。

面白いのは,このシーンの中に,徳子が後白河法皇に「柴漬け」を供する場面が挿入されていることだ。

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第十一話「諸行無常」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

もともと柴漬けは,寂光院に閑居した徳子に里人が夏野菜の漬物を差し入れ,その美味に喜んだ徳子が名付けたのが起源と言われている。『平家物語』原典にはこの柴漬けの件はなく,また山田がこのシーンを挿入した意図も定かではないが,徳子の出家後の祈りの日々の中にも,「柴漬け」をめぐる里の人々との交わりのような俗世的な〈日常〉が確かにあったことを思わせるシーンである。

徳子はこの後,阿弥陀仏の手にかけわたされた「五色の糸」を握りながら往生する。五色の糸とは,念仏者が臨終を迎えた時,阿弥陀仏から自分の手にかけわたした五色の糸のことであり,これによって念仏者は極楽浄土に導かれるとされた。なお,この「五色の糸」の件は原典にも存在する。この五色の糸を用いたラストシーンのシンボリカルな演出は見事だ。

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第十一話「諸行無常」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

五色の糸,徳子の僧衣の紫,柴漬けの赤紫,草葉の緑,びわの髪の白,アゲハ蝶の青,笛の音,琴の音,鐘の音,声優たちの「祇園精舎の鐘の声」の声,そして琵琶の激しくも悲しげな音色。大量の色と音色が一体となって,平家一門鎮魂のラストシーンを構成している。アニメ史に残る名ラストシーンと言っても決して過言ではない。

残されたびわは,平家の物語をまさにその初めから語り始めることになる。光を失ったその眼には,徳子が夢の中の竜宮城で見たのと同じ,平家の面々の柔らかな〈日常〉が記憶されているに違いない。びわの眼を借りた平家の物語はここで終わり,彼女の琵琶が〈語る〉物語がここから始まる。この作品を〈見た〉僕らも,びわに倣って『平家物語』を語り継いでいこう。

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第十一話「諸行無常」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

 

この悲しくも美しい物語を永遠に遺した平家一門に,合掌。

 

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作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:古川日出男訳 「平家物語」(河出書房新社刊)/監督:山田尚子/脚本:吉田玲子/キャラクター原案:高野文子/音楽:牛尾憲輔/アニメーション制作:サイエンスSARU/キャラクターデザイン:小島崇史/美術監督:久保友孝(でほぎゃらりー)/動画監督:今井翔太郎/色彩設計:橋本賢/撮影監督:出水田和人/編集:廣瀬清志/音響監督:木村絵理子/音響効果:倉橋裕宗(Otonarium)/歴史監修:佐多芳彦/琵琶監修:後藤幸浩

【キャスト】
びわ:悠木碧/平重盛:櫻井孝宏/平徳子:早見沙織/平清盛:玄田哲章/後白河法皇:千葉繁/平時子:井上喜久子/平維盛:入野自由/平資盛(幼少期):小林由美子/平資盛:岡本信彦/平清経:花江夏樹/平敦盛:村瀬歩/高倉天皇:西山宏太朗/平宗盛:檜山修之/平知盛:木村昴/平重衡:宮崎遊/静御前:水瀬いのり/源頼朝:杉田智和/源義経:梶裕貴

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 4

5

5
CV ドラマ メッセージ 独自性
5 4 4 5
普遍性 考察 平均
5 5 4.7
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

商品情報

 

*1:『リズと青い鳥』Blu-ray特典オーディオコメンタリーより。

*2:なお,山田は「アニメ!アニメ!」のインタビューで「身を潜めてのぞき見るような感覚で,女の子の秘密のお話を撮り逃さないように意識を集中していました」という言い方もしている。

*3:古川日出男訳『平家物語』,p.10,およびp.879,河出書房新社,2016年。

*4:例えば徳子の"立膝"などがわかりやすい。

*5:「わたしたちが描いたアニメーション『平家物語』」,p.75,河出書房新社,2022年。

*6:ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』(ヴァルター・ベンヤミン著(浅井健二郎編訳・久保哲司訳)『ベンヤミン・コレクション Ⅰ 近代の意味』,pp.643-665に所収,ちくま学芸文庫,1995年)。

*7:古川上掲書,pp.886-887。

*8:同上,p.888。

*9:出家後の直実は第十一話に登場している。

*10:「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」のこと。