アニ録ブログ

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TVアニメ『お兄ちゃんはおしまい!』(2023年冬)レビュー[考察・感想]:バッグに付けたマスコットのように

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。

『お兄ちゃんはおしまい!』公式Twitterより引用
©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

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ねことうふ原作/藤井慎吾監督『お兄ちゃんはおしまい!』(以下『おにまい』)は,男→女というTSFのギミックを巧みに用いつつ,ガールズトークのカジュアルな楽しさを描いた作品である。12話という小品ながら,日本アニメが培ってきた〈日常系〉ジャンルの魅力を凝縮した秀作となった。

 

あらすじ

「エロゲを愛する孤高の自宅警備員=ダメニート」緒山まひろ(男性)は,ある日,天才(マッド)サイエンティストの妹・みはりが作った薬によって女の子の身体にされてしまう。突然の変化に戸惑いながらも,まひろは新たな人間関係を育み,新たな自分を発見していく。

 

〈日常〉と〈変身〉

思えばフィクションの想像力において,〈変身〉には理不尽がつきものだ。李徴は誰もが抱く当たり前のエゴイズムのゆえに虎の姿にされ,ハヤタ・シンは宇宙警備隊員に衝突されたことでウルトラマンとして生きることを余儀なくされる。本郷猛はショッカーに攫われて改造人間にされ,美樹さやかたちは魔法少女(あるいは魔女)として宇宙の摂理に搾取される。これまで紡がれてきた〈変身譚〉の多くが,このような,およそ主体的な動機を欠いたアクシデントを主原因としている。

『おにまい』の緒山まひろもそうだ。「ダメニート」として孤独な安逸をむさぼっていた彼(彼女)は,妹の奸計によって一夜にして美少女にされ,望まないコミュニケーションの世界に“被投”される。その意味で,『おにまい』のようなTSF作品は,TSFであると同時に,上記のような〈受動的変身〉の系譜に連なると言える。

ところで,〈受動的変身〉の理不尽を純度の高い不条理にまで極めたのが,フランツ・カフカ『変身』(1915年)であり,安部公房『棒』(1955年)であることは言うまでもないだろう。すでに指摘されていることだが,とりわけカフカの『変身』と『おにまい』の間には,偶然にも共通点が多い(無論,原作者が意図した可能性もある)。どちらも自室での起床時に自分の変身に気づく。どちらも最初に自分の四肢の変化に気づく。どちらも変身後の主人公の面倒を見るのは妹である。そしてどちらも,主人公の自室や自宅を中心とした〈日常〉の中でその後の物語が展開していく。

「#01. まひろとイケないカラダ」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

とりわけ最後の点は重要だ。『ウルトラマン』『仮面ライダー』『魔法少女まどか☆マギカ』などに見られるように,フィクション,とりわけエンタメ系フィクションにおける〈変身〉は,SFや異世界といった特殊な舞台設定の中で,“敵と戦う力”という装置として機能することが多い。しかし『変身』や『おにまい』では,〈変身〉はあくまでも日常性の内部で生じた"異常"として描かれる。『変身』では,虫になったグレゴールに戸惑いながらも,ザムザ一家は日常生活を維持しようとする。『おにまい』では,女性化したまひろが中学校に通うなど,以前にも増して積極的に日常生活を営む。それだけに,日常/異常のコントラストが際立つ。

ゆえに,『おにまい』のような作品において日常風景や日常芝居が丁寧に描かれていることには極めて大きな意味がある。

左:「#02. まひろと女の子の日」/中:「#03. まひろと未知との遭遇」/右:「04. まひろとあたらしい友達」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

この作品は,室内のプロップ,料理シーン,キャラの所作など,〈日常〉を確かに感じさせる細やかな描写が目を引く。こうした演出によって,まひろの〈変身〉が〈日常〉の中に定位していることがはっきりと示されている。

〈日常〉の中だからこそ,〈変身〉は敵を殲滅することもなければ世界を救済することもない。それは目的を持たず,善悪の倫理に基づくこともなく,〈変身〉そのものとして機能し,それゆえに〈日常〉に対する〈変身〉の異常性をいっそう露呈させる。グレゴール・ザムザも緒山まひろも,投げ込まれた〈日常〉のコンテクストにおいて〈変身〉という異常事態を受け入れることを余儀なくされる

 

害虫から美少女へ

しかし,古典作品と現代のアニメが"似ている"ことを指摘するだけでは,表面的なアナロジーをなぞったに過ぎない。こうした場合の作品比較の真の意味は,差異の析出にこそある。事実,『変身』と『おにまい』には表面的な共通点が多いだけに,却ってその差異がアンチテーゼ(対句)のように際立って見えてくるのだ。

グレゴール・ザムザがある朝[中略],目を覚ますと,ベッドの中で自分が巨大な虫に変わっていることに気づいた。*1

緒山まひろがある昼,目を覚ますと,布団の中で自分が美少女に変わっていることに気づいた。

グレゴール・ザムザが目覚めるのは「朝」である。それは彼が勤勉な「外交販売員」として毎朝早起きしているからだ。しかし彼は内心,外交販売員の仕事を苦痛に感じ,そこから解放されたいと考えている。その願望が「虫」への変身として叶えられるという強烈なアイロニーがこの作品では示されている。

一方で,まひろが目覚めるのは「昼」である。それは彼女ーーここからは「彼女」と呼ぶことにしようーーが「ダメニート」だからだ。彼女は誰とも交わらず,何の社会的責任も負わないニート生活を心底気に入っている。しかし彼女は女性化することで,孤独で快適な繭玉の中からガールズトークというコミュニケーションの世界へと引き摺り出されるーーあるいは引き摺り込まれる。

片や,外交販売員という社会的存在者から虫という嫌忌される存在へ。片や,ニートという非社会的存在者から美少女という愛される存在へ。言うまでもなく,この違いは途方もなく大きい。

ちなみに『変身』において「虫」と訳されるドイツ語のUngezieferは,本来「害虫」という意味である。語源的にも「供物(いけにえ)に適さない動物」という意味であり,そのイメージはネガティブ極まりない。事実,グレゴール・ザムザは,ザムザ家の日常の一隅に位置を占めながらも,その言葉はもはや家族には伝わらず,コミュニケーションから疎外される。彼は文字通り「害虫」として扱われ,最終的に家族から排除されてしまう。その意味で,グレゴール・ザムザの〈変身〉は日常に対して〈外在的〉である。

それに対し,美少女に変身したまひろは,周囲の人間から終始好意的に受け入れられる。彼女は,少女たちのコミュニケーションの輪の中に半ば強引に取り込まれた後,徐々にそこに居心地の良さを見出すようになる。それどころか,変身の元凶となったみはりすら,コミュニケーションの輪の内部に取り込まれ,"姉"として新たなロールプレイをすることになる。まひろの〈変身〉は,日常に対して徹頭徹尾〈内在的〉である。

左:「#03. まひろと未知との遭遇」/中:「#06. まひろと二度目の中学生」/右:「#07. まひろとロールプレイ」より引用  ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

つまりこの作品のコアにあるのは,かつてコミュニケーションに対してーー「害虫」とはまでは言わずともーー〈外在的〉であったダメニートまひろが,ゆるいコミュニケーション世界の内部に投げ込まれるという物語構造なのであり,その意味で,『らき⭐︎すた』(マンガ原作:2004年-/アニメ:2007年)系〈日常アニメ〉などと同様,すぐれて〈日常系〉的な作品なのだ。『おにまい』と『変身』は,同じく〈日常〉を舞台としていながら,〈変身〉の位置付けに関してはほぼ真逆の描写をしているのである。

 

日常と〈日常〉

まひろは〈変身〉というアクシデントによって投げ込まれた〈日常〉世界の内部で,緩やかなガールズトーク・コミュニケーションに興じる。しかし言うまでもなく,そこで描かれる〈日常〉は現実そのものではない。

本作の画作りにはユニークな点が多い。まず目に付くのは,画面の至る所に貼り付けられた星型・水玉・ハート型のテクスチャーだ。家具や調度品の表面だけではなく,屋外の空間にも張り付けられている。そしてパステルカラーを基調としたハイキーな色彩キャラのカラフルな髪色。まるで画面の隅々まで,“女の子”というファンシー感が満たしているかのような画作りだ。

左:「#02. まひろと女の子の日」/中:「#04. まひろとあたらしい友達」/右:「06. まひろと二度目の中学生」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

こうした画作りは,この作品世界のリアリティラインをファンタジーに近い水準にまで下げている。とりわけ伊礼えりが手がけた「#02. まひろと女の子の日」などでは,広角レンズによる空間の歪みによって,まるでお伽話のような世界観が生まれているのが面白い。

「#02. まひろと女の子の日」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

僕らの日常と近似しているようで,どこか別世界のような雰囲気の画作り。いわばカッコ付きの〈日常〉。日常の中に生きる僕らは,そんな〈日常〉に親近感を抱きつつも,“すぐ近くにある異世界”を見ているような不思議な浮遊感を抱く。まひろが生きる日常は,そうした〈日常〉である。

 

『おにまい』の"肌色"はエロいか

ところで,この作品は比較的"肌色"が多い。しかしその"肌色"は本当にエロいのだろうか。これほど"肌色"が多いにもかかわらず,作品全体に不思議な清涼感が漂うのはなぜだろうか。

まひろは女性化した自分を男性的エロ目線で見ることがほとんどない。すでに「#01. まひろとイケないカラダ」で,まひろは「見てしまえば,どうってことはなかったな…」と自分の身体を即物的に認識している。「#02. まひろと女の子の日」における「生理」のエピソードは,まひろが〈変身〉によって生じた「違和感」を"女の子の現実"として受け入れるイニシエーションであるとも言える。また彼女は"可愛い女の子"としてのアイデンティティを早々に受け入れており,身体だけでなく内面も女性化しつつあるように見える。

「#01. まひろとイケないカラダ」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

つまりこの作品では,女性化した自己の身体を男性目線で客体化するという,ありがちな“セルフ・セクハラ”ーー新海誠の『君の名は。』(2016年)ですらこの種のハラスメント表現を採用しているわけだがーーは慎重に回避され,まひろが心身ともに女性であることを受け入れる過程に焦点が当てられているわけだ。〈男=主/女=客〉ではなく,〈男⇄女〉という自意識の揺らぎを描いた点が本作の面白さでもある。

また,まひろは他の女の子たちに対しても男性的エロ目線を向けることがあまりない。まったくないわけではないが,「#06. まひろと二度目の中学生」の着替えシーンや「#12. まひろのおしまいとこれから」の温泉シーンなどに見られるように,どちらかと言えば目線を向けること自体を遠慮する場面が多い。

左上:「#06. まひろと二度目の中学生」/右上:「#12. まひろのおしまいとこれから」
下:「#11. まひろと女子のたしなみ」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

さらに,みはりとかえでの"姉"コンビとのやりとりなどからは,まひろが女性に対して一種の敬愛の念を抱いている節すら伺える。まひろは女性化したことを利用して他の女性を客体化(セクハラ)することがほとんどなく,一定の当事者意識を持ちながら,女性性に対して敬意を示すキャラとして描かれているのだ(『君の名は。』には決定的に欠けていた視点だ)。

要するにこの作品の“肌色”は,それ自体としては比較的度数の高いエロ描写だが,物語内部のまひろ目線で見た場合には,その濃度がかなり希釈される構造になっているのだ。主人公に感情移入や自己同一化をすればするほど,ダイレクトなエロさを感じなくなる作りになっているのである。描写はエロそのものだが,まひろの目線においては「これはエロではない」という一種の「イメージの裏切り」(ルネ・マグリット)が発生しているとも言える。

「#03. まひろと未知との遭遇」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

まひろのこうしたキャラ造形が,先述したパステル調のハイキーな色彩設計と相まって,本作に独特な清涼感を加味しているのである。

また,この作品において,もみじみよというキャラの位置付けは極めて重要だ。

もみじは誰もが男の子と見間違えるほどボーイッシュなキャラとして描かれている。デザイン面でも,フェミニン度の高いまひろとは対照的だ。〈男→女〉というまひろのTSFと,〈女→男〉というもみじのTSFの対比が,この2人の関係性をユニークなものにしている。その上で決定的に面白いのは,もみじ初登場の「#04. まひろとあたらしい友達」における"ラッキースケベ"のシーンだ。

「#04. まひろとあたらしい友達」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

男性であるはずの“女の子”まひろが,女性であるはずの“男の子”もみじからラッキースケベを受ける。表面的には『エヴァンゲリオン』におけるシンジ&レイ以来のラッキースケベの構図を踏襲しているものの,ここでは男女間のワンウェイな主格関係は周到にシャッフルされ,“BL/百合風味ラッキースケベ男女転倒バージョン”とでも言えそうな倒錯した様相を呈する。

さらに,ここにみよからの百合腐女視線が加わることによってーー擬似的にとは言えーー単純な男性目線のエロは完全に相対化される。

「#08. まひろとはじめての女子会」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

また,まひろの声をすべて女性声優で一貫させたことも大きい。TSFモノでは,日常的には女性声,モノローグなどでは変身前の男性声などのように,別の性の声優が声を当てることもあるが,『おにまい』ではまひろの声を高野麻里佳がすべて担当している。みはりと二人きりのシーンなどでは"男しゃべり"をするものの,まひろの声は終始"可愛い女の子"の声である。ちなみに,高野は"心は男性だが身体は完全に女性で,実は心も女性化しつつある"という役所を見事に演じており,先述した〈男⇄女〉の自意識の揺らぎのようなものは彼女の演技に依るところが大きい。本作における高野の貢献度は非常に高いと言えるだろう。

こうして,まひろの目線,もみじとみよとの関係性,そして声優の声といった要素によって,この作品からは生々しいマチスモがきれいに拭い去られている。この作品において,まひろのこうしたキャラ付けは極めて重要な意味を持つ。彼女は,自分が投げ込まれたガールズトークというコミュニケーション世界をーー部分的にはそうすることはあってもーー外部から男性目線で客体化したり批評したりすることはなく,むしろ当事者(つまり女性)として積極的に参加する。まひろはコミュニケーション世界に対して自ら〈内在的〉であろうとするわけだ。したがって,究極的には"女の子"でなくてもよいはずだ。事実,まひろは「#12. まひろのおしまいとこれから」のラストシーンでこう言っている。

べ・べつに女の子でいたいわけじゃないぞ!ただ…もうちょっとこのままでもいいかなって…

他者とのコミュニケーションという価値観を冷笑したり腐したりすることなく,そこに内在的に関わること自体を大切にする気持ち。これこそ,みはりの言う「お兄ちゃん改造計画」の意図したところなのだろう。

 

「おしまい」にしたくない〈日常〉

最終話「#12. まひろのおしまいとこれから」で,みんなと温泉に出かけたまひろは,入浴中に男の身体に戻りかけてしまう。それを予見していたみはりは「女の子になる薬」を差し出すが,まひろは男性に戻れなくなることを懸念して,それを飲むことを躊躇する。女性としての〈日常〉を継続するか,男性としての〈日常〉に戻るか。彼女はその決断をいったん留保するのだ。

しかしその後,少女たちと雪合戦に興じたまひろは,彼女たちの楽しげな姿を見ながらこう独り言つ。

そうか,元に戻ったらこういうのもおしまいか…俺,結構居心地良かったんだな。

彼女は掌の中で消えゆく雪片を愛おしそうに見つめた後,一人密かに「薬」を飲み干す。

「#12. まひろのおしまいとこれから」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

「おしまい」というタイトル回収的なセリフ,消え去る雪片の儚さ,今まさに消え去ろうとしている楽しい日々、そしてそれを掴んで離すまいとするまひろの決意を同時に表した名シーンである。

まひろは,物語の始まりとは違い,今度は"女の子"であることを主体的に選択する。彼女は時限装置付きの“女の子というファンタジー”を自ら継続し,ガールズトークのコミュニケーション世界を維持することを選ぶ。〈受動的変身〉で始まった物語は,〈能動的変身〉で終わる。「おしまい」というタイトルとは裏腹に,まひろは「おわらせたくない」価値を見つけ出したのだろう。それは,かけがえのない仲間たちとの間の,本来あり得ないはずのガールズトークであり,みはりとの間の,「兄妹」という間柄では築けなかった「姉妹」という関係性だったに違いない。

「#12. まひろのおしまいとこれから」より引用 ©︎ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

まひろの〈変身〉は敵を殲滅するわけではない。世界を救済するわけでもない。ただかけがえのない友だちとの関係性を維持するためにあるだけだ。しかし,そうしたミニマルな日常生活を慈しむことは,近年の深夜1クールアニメの一つの美徳と言えるのではないだろうか。『おにまい』と同様,『Do It Yourself!!』(2022年)や『ぼっち・ざ・ろっく!』(2022年)のような作品が高評価を受ける所以である。

 

僕らの日常と変わりのない〈日常〉でありながら,僕らの日常では決して起こり得ないささやかなファンタジー。そしてその中で繰り広げられる,他愛のない,しかしかけがえのないコミュニケーション。まるでバッグに付けたマスコットのように,フワフワと非現実的な浮遊感を持ったまま,僕らの日常に常に優しく隣接する〈日常〉。それが『おにまい』という作品であり,また現代日本における〈日常系〉作品の1つのあり方なのではないだろうか。

 

 

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作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:ねことうふ/監督:藤井慎吾/シリーズ構成:横手美智子/キャラクターデザイン:今村亮/美術監督:小林雅代/色彩設計:土居真紀子/撮影監督:伏原あかね/編集:岡祐司/音響監督:吉田光平/音響効果:長谷川卓也/音楽:阿知波大輔桶狭間ありさ/プロデュース:EGG FIRM/制作:スタジオバインド

【キャスト】
緒山まひろ:
高野麻里佳/緒山みはり:石原夏織/穂月かえで:金元寿子/穂月もみじ:津田美波/桜花あさひ:優木かな/室崎みよ:日岡なつみ

 

作品評価

キャラ

モーション 美術・彩色 音響
5.0 4.5

5.0

3.5
CV ドラマ メッセージ 独自性

4.5

4.0 3.5 4.0
普遍性 考察 平均
4.0 5.0 4.3
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

商品情報

*1:Kafka, Franz: Die Verwandlung, 1915.(Deutsches TextarchivZ(DTA)より。引用は拙訳による。)