アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

アニメと一緒に読んだ本 2023

アニメを観る。キャラクターや物語のどこかに,一種の既視感がある。当然のことだが,創作において完全な“オリジナル”は存在しない。すべてのーーそう,文字通り“すべての”ーー創作が,過去の創作の部分的な模倣であり,再構成である。その模倣と再構成の手順が“オリジナル”なのだ。

頭の中の情報を検索する。大昔に読んだ本や大昔に観た映画がヒットする。確かに似ている。SNSで検索すると,他にも同じように感じている人が少なからずいる。見知らぬ人と同じ思いを共有できたことにささやかな喜びを感じる。

でも僕はたいていそこで満足できない。脳内であれSNSであれ,「検索」という行為はインデックスという表面的な情報をピックアップしただけのことだからだ。そこには作品そのものの体験という決定的な要素が欠けている。すでに鑑賞済みの作品だとしても,やはり一次情報に立ち返って記憶を呼び戻さないと気が済まない。だから僕は,自室のリアルな書棚に向かう。数年前,数十年前に読んだ古い本を引っ張り出してきて,数年ぶり,数十年ぶりに再読する。

こうして僕は,最新のアニメ作品を通して過去の作品と再会する。僕がむかしむかしそのむかしに得て,これまで脳内で静かに眠っていた鑑賞体験の記憶が,現代のアニメによって再びアクティブになる。アニメ鑑賞は現在における刹那的消費から,過去の記憶と有機的に結びついた,より重層的で深い鑑賞体験へと変わる。

少し大袈裟な言い方かもしれないが,これは豊かな文化的営為だと思っている。率直に言って,アニメが刹那的に消費されるだけのものなら,これだけ多くの人がこれだけ多くの時間と労力を使って作る必然性はないだろう。僕がアニメを観るだけでなく,アニメと一緒に本を読む理由はそこにある。

さて前置きが長くなったが,今回の記事では2023年に掲載したアニメレビューに関連する書籍,およびアニメ関連の書籍をいくつか紹介しよう。

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カフカ『変身』(1915年)

フランツ・カフカ『変身』を最初に読んだのは,もう20年以上も前のことだ。もともと僕は大学院時代にドイツ文学や思想を専門としていたので,『変身』は原書と翻訳を合わせて数回は読んでいたと思う。しかしあの頃,TSF系美少女アニメをきっかけに再読することになるとは夢にも思わなかっただろう。

ねことうふ原作/藤井慎吾監督『お兄ちゃんはおしまい』の主人公まひろは,ある朝目覚めると変身していた。この受難的で不条理な変身譚は,ちょうどグレゴール・ザムザのそれと相似する。両者の類似は,早くからSNS等で指摘されていた。しかしカフカの不条理が〈害虫〉という存在の疎外的実存を描くのに対し,『おにまい』は〈美少女〉のインクルーシブなコミュニケーション世界を描く。同じ〈日常世界での変身〉というモチーフを扱っていながら,両者における〈日常〉のありようはまるで異なる。『おにまい』を観ていただけでは見えてこなかった作品の側面だ。

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安部公房『棒』(1955年)(新潮文庫『R62号の発明 鉛の卵』に所収)

『変身』との連想で思い出されるのは,カフカの影響を強く受けたとされる安部公房『棒』(1955年)だ。「デパートの屋上に佇む子連れの男が,突然一本の「棒」 になって屋上から落下する」という話を高校生の頃に初めて読んだ僕は,これほど不条理な小説が世の中に存在するということに素直に驚いた。今にして思えば当たり前にすぎる感想だが,素朴な読書体験しかしてこなかった当時の僕にとって,その衝撃はとてつもなく大きかったのだ。ちなみに上にリンクを貼った新潮文庫版は短編集だが,〈受動的変身〉をモチーフに扱ったものとしては『棒』の他,『R62号の発明』(1953年),『盲腸』(1955年),『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』(1956年)が所収されている。

 

野崎透『アニメーションの脚本術』(2022年)

さて話は打って変わって,今年初読したアニメ制作関連の書籍を一冊紹介しておこう。アニメ制作に携わっていない者にとって,「脚本」はもっともイメージが掴みづらい制作工程の1つと言えるだろう。本書は数名のアニメ脚本家の話を通して,その曖昧なイメージを具体化してくれる。面白いのは,脚本家によって脚本執筆の具体的作業や理念がまったく異なっていて,普遍的な“脚本像”のようなものがまったく存在しないということだ。結果,本書を読んだ後も相変わらず脚本のイメージは曖昧なままなのだが,その曖昧さの質が読書前後でまったく変わってくる。アニメファンならば一読の価値はあるだろう。

 

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937年)

今年最も世の賛否を分けたアニメ映画,宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』の“予習”として読んだ一冊。登場人物も物語も異なるので,いわゆる“原作”というわけではないが,本書を読んだか否かで映画の観方が大きく変わることは確かだろう。しかし映画との関連は別にして,本書は哲学・歴史学・倫理学を文字通り「生きる」ことの意義について考えさせてくれる,優れた哲学書である。大都会を見下ろす中学生の頭の中で〈見る主体〉と〈見られる主体〉とが錯綜するくだりなど,哲学的省察と文学的感動が入り混じった不思議な感覚に襲われる。この歳になるまでこの本を読まなかったことが悔やまれるほどの良書だ。

 

岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』(2023年)

おそらく『君たちはどう生きるか』の次に賛否相半ばとなった,岡田麿里監督『アリスとテレスのまぼろし工場』。こちらは映画鑑賞後の“復習”として読んだ。世間では評価が分かれたが,岡田の問題意識をダイレクトに反映した作品として当ブログでは高く評価した。類まれな世界観と激烈な感情,閉塞感と停滞感と強烈な痛み。おそらくこれまでの岡田作品の中でも最も濃厚な“岡田麿里エッセンス”が充溢した作品だろう。アニメ映画の方も,優れたアニメーション技術と卓越したキャストの演技によって,この稀有な物語を美しく映像化していた。アニメ映画を観て圧倒的な映像体験をした後,原作で情報の整理をし,アニメを再鑑賞,という流れが理想的だと思われる。

 

セルジュ・ティスロン『ロボットに愛される日』(原書:2015年/翻訳:2022年)

『アイの歌声を聴かせて』(2021年)『Vivy -Fluorite Eye's Song-』(2021年)『地球外少年少女』(2022年)『PLUTO』(2023年)など,アニメ作品に限定してみても,“AIモノ”や“ロボットモノ”は近年量産され続けており,当ブログでもしばしば話題にしてきた。本書はAIと人間との関係性を心理学の見地から論じた啓発書だ。「ロボットは心を持ち得るか」ではなく「どうして人はロボットに“心”を見出そうとするのか」という問題提起を出発点としている。人間はロボットという「対象(オブジェ)」との間に「人工エンパシー(共感)」を持ち,強い「アタッチメント(愛情)」を抱く可能性がある。その時どんなリスクが生じ得るか。人間とロボットはどのような関係を築くべきか。ロボットに心があることを“前提”とすることの多いアニメ作品とはやや視点が異なるのだが,それだけに,〈ロボットと心〉というテーマを多角的に見るきっかけとなる良書だ。

 

岡田美智男『〈弱いロボット〉の思考』(2017年)

筆者の岡田は,サッチマンの「状況的行為」という着想を踏まえ,人やロボットの行動を主体的な「プラン」ではなく,環境や他者との間の開かれた「関係」から発生するものと捉える。当初,アニメ作品におけるAIやヒューマノイドロボットの考察のために読み始めたのだが,読み進めていくうち,アニメーションの制作や考察にも役立つのではないかと思い始めた。アニメーションもある意味で〈行動〉に関する考察と表現であり,個々のキャラクターの行動は,舞台となる場所の具体的な形状との「関係」で発生するものだからだ。この観点から,『特別編 響け!ユーフォニアム〜アンサンブルコンテスト〜』における「窓」「段差」『呪術廻戦 渋谷事変』第37話における「渋谷」という「環境」を考察した。来年はこの点についてさらに考察を深めていこうと考えている。

 

以上,2023版「アニメと一緒に読んだ本」7冊を紹介した(ここに挙げた以外にも間接的に参照した本も多数あるが,今回は割愛した)。本記事をご覧になったアニメファンのみなさんが上掲の書のいくつかを手に取ってお読みになり,どこかで互いの感想を共有できれば幸いである。

最後に,とあるサイコパスの男に倣ってこう付け加えておこう。

「紙の本を買いなよ」