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TVアニメ『メイドインアビス 烈日の黄金郷』(2022年夏)レビュー[考察・感想]:「憧れ」ー禁忌と聖性の彼岸へー

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』公式Twitterより引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

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つくしあきひと原作/小島正幸監督『メイドインアビス 烈日の黄金郷』(以下『黄金郷』)は,2017年夏に放送された第1期テレビアニメ,および2020年に公開された『劇場版メイドインアビス 深き魂の黎明』の続編であり,原作第6巻から10巻までの内容を基にしている。前作にも増して過酷さと残酷さを極める物語は,本作のライトモチーフである「憧れ」という価値が,常識的な善悪の価値とは無縁であることをはっきり示している。『メイドインアビス』という作品が類稀な“怪作”であることを改めて印象付けた作品となった。

 

あらすじ

深界五層で黎明卿ボンドルドと決着をつけたリコレグナナチの一行は,白笛となったプルシュカメイニャを連れ,深界六層「還らずの都」への「絶界行(ラストダイブ)」を敢行する。何者かの侵入によってプルシュカを奪われたリコたちは,やがて誘われるようにして「成れ果ての村」にたどり着く。そこは独自の「価値」のシステムが支配する,奇妙なコミュニティだった。はたしてこの村の成り立ちとは…

 

語る声=ミュトス:ヴエコ

ヴエコは語る。

第1話「羅針盤は闇を目指した」の冒頭は,「イルミューイ,私ね,あなたに出会うまで探してたものがあったの」というヴエコのモノローグから始まる。これを皮切りに,彼女はワズキャン率いる「ガンジャ隊」がアビスに到達するまでの経緯を静かに語り出す。

実はこの第1話冒頭のシークエンスは,原作の章立て順から改編されている。『黄金郷』は原作の第6巻から第10巻の内容に相当するが,「羅針盤は闇を目指した」は第8巻の冒頭部分であり,本来はリコが「ドグープ(目の奥)」でヴエコと出会った後に語られるエピソードである。アニメではこのエピソードを第1話の冒頭に置くことで,時系列を把握しやすくするだけでなく,『黄金郷』においてヴエコたち「ガンジャ隊」の物語が主旋律となることを告知している。

このことは,小出卓史が手がけたOPアニメーションの構成からもうかがえるだろう。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』ノンクレジットオープニング映像より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

冒頭,カメラはヴエコとリコを真正面からアップで捉える。ここで早速,ヴエコ≒リコという等式が提示される。OPの前半では,上下や左右の画面分割によってガンジャ隊とリコさん隊が対比させられ,ガンジャ隊もかつてはリコさん隊と同じように希望に満ちた冒険者であったことが示される。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』ノンクレジットオープニング映像より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

また,映像冒頭のリコの主観カットと最後のヴエコの主観カットも面白い。このカットの挿入により,物語全体がリコの視点とヴエコの視点に挟まれた“枠構造”を成しているかのような印象を与える。

さらに第1話Bパートでは,「絶界の祭壇」に飛び込むヴエコとリコのカットが重ね合わせられる。Bパートラストでは,「祭壇」から飛び出したリコたちを正面から捉えたカットに,ヴエコの「私たちはとうとう辿り着き,そして二度とそこから戻れなかった」というナレーションが添えられることで,ヴエコ≒リコの等式がいっそう補強される。

第1話「羅針盤は闇を目指した」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

かくして,ヴエコはリコたちの冒険=サイドAに重ね合わせるようにして,ガンジャ隊の冒険=サイドBを語り始める。彼女は終始,ガンジャ隊の運命を語る主体=ミュトスとしての役割を演じ,その散文詩のような静かな語りが『黄金郷』という物語の基調となって響き続ける。

とりわけ『黄金郷』の中でも際立って陰鬱な第7話「欲望の揺籃」第8話「願いの形」の回想は,もっぱらヴエコの視点から語られる。彼女のアルトの声は,不気味に未来を予言するワズキャンのバリトン,持ち前の理智で皆を導き諭すベラフのテノール,そしてケビン・ペンキンの美しい音楽と奇妙に調和しながら,「成れ果ての村」の呪われた成り立ちを語り始めるのだ。

 

聖体拝領,あるいは/そしてカニバリズム

はたして,ヴエコのミュトスが語り出したのは,見るも残酷な“聖餐”の儀式であった。

ここには〈食〉という行為にまつわる,本作の極めてユニークな感性が深く関わっている。周知の通り,『メイドインアビス』ではアビスの原生生物を素材にした食事シーンが多く描かれる。未知の領域の冒険となれば,当然,未知の素材の食事が必然となる。そこを捨象せず,丁寧に描いているのが本作の魅力の一つだ。

ところで食事シーンと言えば,それ自体が既に日本のマンガ・アニメの“伝統芸能”として確立されており,様々な作品中に頻繁に見られるモチーフだ。特に数々の珍味に挑む『メイドインアビス』の食事シーンは,野田サトル『ゴールデンカムイ』(2014-2022年)のそれとも似た原初的な貪欲を感じさせもする。過酷な世界の只中で,食われる前に食うという生存のあり方。両作品共に,グルメマンガにも引けを取らないほど豊かな食を描きながらも,綺麗事のレベルを超えた,生きること,生の渇望そのものの即物性に迫っていると言っていい。

したがって『黄金郷』で,〈食〉と対をなす〈排泄〉のシーン(それもリコの)が2度も描かれるのも偶然ではないかもしれない。繰り返すが,アビスでの食は“綺麗事”ではないのだ。生きるために不可欠な〈食〉には,それと等しく不可欠な〈排泄〉が必然的に伴う。これは『ゴールデンカムイ』にも共通することだ。原作第3巻にある二瓶鉄造のセリフを見てみよう。

勝負の果てに獣たちが俺の体を食い荒らし,糞となってバラ蒔かれ山の一部となる。理想的な最後だ。*1

このセリフは北海道の過酷な自然における生のあり方を説いたものだが,これは〈食う〉ことと〈食われる〉ことが間近に隣接した「アビス」の自然にもそっくりそのまま当てはまると言えるだろう。*2

左:第1話「羅針盤は闇を目指した」より引用 /右:第4話「友人」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

そして『黄金郷』という過酷な物語のユニークネスは,この〈生きるための食〉という,この上なく単純明快な一次的欲求の有り様を,こともあろうにカニバリズム的な儀礼にあっさりと接続してしまった点にある。

「欲望の揺籃」によって「子どもを産む」という欲望=願いを叶えたイルミューイは,かつて愛玩していた「ヤドネ」によく似た子どもを産むようになる。しかしその子どもには栄養摂取の器官が存在しないため,産まれてすぐに死んでしまう。この子どもを,かつて「あの子は必ず我々の救いになる」と予言したワズキャンが「ミズモドキ」に冒された隊員の治療のための“食材”にする。人の形をしていないとは言え,紛れもなく食人(カニバリズム)の所業である。

第7話「欲望の揺籃」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

イルミューイの子どもに栄養摂取の器官が備わっていなかったということは,〈食う/食われる〉という自然の摂理から排除されていたことを意味している。イルミューイの子らは,最初から一方的に食われる“贄”として存在してしまっていたのだ。それはかつてボンドルドによって“贄”にされたプルシュカの運命に匹敵するか,ともすればそれよりも遥かに苛酷なものかもしれない。ここにおいて,〈食〉という行為は自然界の摂理から逸脱した異常な様相を呈する。

第7話ラストでワズキャンがヴエコに言う「大丈夫,みんなにも振る舞ったさ!」というセリフがおぞましく響くのは,「振る舞う」という言い回しによって,彼が最初からイルミューイの子を贄として見ていたことをあからさまに示しているからである。この時のワズキャンを恐怖の目で見つめるヴエコの表情が印象的だ。

第7話「欲望の揺籃」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

第8話で,ワズキャンはヴエコの前で何の屈託もなくイルミューイの子を“調理”する。まるで日常的な料理シーンででもあるかのような軽やかなSEが却って恐怖を煽り立てる。かつこのシーンは,先行する第2話「還らずの都」における「ミゾウジャク」の調理と食事のシーンを否応なく想起させてしまう。〈生きるための日常的な食事〉と〈生きるための異常なカニバリズム〉が接続される。根源的タブーを敢えて表現するという,原作者つくしあきひとの度し難い意思を感じる描写であり,かつまたそれに真正面から向き合うアニメ班の気概を感じさせもする。

上:第2話「還らずの都」より引用/下:第8話「願いの形」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

さらに,このカニバリズム行為の中に宗教的な暗示がある点も見逃せない。

『メイドインアビス』の物語では,「アビス」という大穴が一種の信仰対象になっていることが早くから暗示されている。*3 そして第1話のヴエコのセリフによれば,ワズキャン率いるガンジャ隊は何らかの理由で故郷を追われ,「名もなき神」を求めてさすらう流浪の民であり,ユダヤの選民思想にも似た動機に突き動かされている。ワズキャン,べラフ,ヴエコを指す「三賢」という言葉も,一般的な意味での“三人の賢者”であると同時に,キリスト教における「東方の三賢者」を思わせる呼称だ。だとすれば,イルミューイの子の肉を喰らうことは,パンと葡萄酒=キリストの肉と血を食す宗教的なイニシエーションを暗示しているとも解釈できる。事実,第8話にはガンジャ隊の人々が子を産み落とすイルミューイに祈りを捧げているカットが挿入されている。

第8話「願いの形」より引用 ©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

ところで極限状態におけるカニバリズムという行為は,それ自体としては,現実の歴史上もフィクション史上も,決して目新しいことではない。アステカ帝国の「人身御供」,テオドール・ジェリコーの絵画『メデューズ号の筏』(1818-1819年)のモチーフとなった「メデューズ号」の難破事件(1816年),マイケル・サンデルが『これからの「正義」の話をしよう』で言及したことでも知られる「ミニョネット号事件」(1884年)*4 など,事例には事欠かない。*5 また,太平洋戦争時,極度の飢餓状態に置かれた兵士の食人への渇望を描いた大岡昇平『野火』(1952年)などは,そうしたカニバリズムの文学的表象の一つである。

そしてこの種のカニバリズムにおいては,食べることの肯定的・生産的な側面と,否定的・破壊的な側面の二面性が必ずと言っていいほど問題となる。岡田温司『キリストの身体』によれば,ユダヤ=キリスト教の世界において,この両義性が象徴的な形で表れているのが「アダムとエヴァの原罪」と「聖体拝領」である。楽園に住むアダムとエヴァは,「知恵の実」を食べることで原罪を背負う。これを「中和化」するのが,聖体拝領だというのだ。

原罪における食事の負の遺産,これを中和化し償うというのが,まさしく聖体拝領,つまりキリストの身体を食べることのひとつの理由である。キリストの身体を食べることによって,アダムとエヴァが禁断の木の実を食べてしまったという罪が,ひとまず帳消しにされるのである。その意味で,原罪の食と聖体拝領の食とは,対照的で補完的な関係にある。*6

また岡田によれば,聖体拝領はコミュニティ維持の機能も担っていた。「同じパンとワインをともに食する聖体拝領は,共同体の構成員の結束を高め,さらに社会のヒエラルキーを強化する装置として機能することにもつながるのである」*7

予言者ワズキャンは,こうしたカニバリズムの〈悪徳の聖性〉に依拠しつつ,自分が導く民たちを救い,「成れ果ての村」という独自の「価値」システムが機能するコミュニティを築こうとしたのかもしれない。しかしベラフとヴエコは,むしろその〈聖性の悪徳〉に耐えることができなかったのである。

しかし『黄金郷』という物語には,そうした〈聖性/悪徳〉という道徳的価値をも喰らいつくし,焼き尽くす「烈日」が登場する。「果てぬ姫」ファプタである。

 

叫ぶ声=パトス:ファプタ

ファプタは叫ぶ。

ヴエコのアルトの物語り,ワズキャンのバリトンの予言,べラフのテノールの諭しを,イルミューイ=ファプタの叫ぶ声が劈く。パトス(情念)がミュトス(神話)を引き裂く。

ファプタはイルミューイの末の娘として(それはイルミューイ自身の生い立ちと同じだ),意味の分節のない叫びとともに生を受ける。彼女は叫びとともに破壊に明け暮れる。

第8話「願いの形」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

ファプタの誕生の叫びは,第7話におけるイルミューイの産みの叫びと同じく,周囲にいる者の心を大気ごと引き裂くかのようである。イルミューイとファプタの両方を久野美咲が演じたことの最大の意味がここにある。

第9話「帰還」で成れ果ての村への侵入をはたしたファプタは,呪詛の言葉を放った後,村の破壊と民の虐殺を始める。ファプタは聖体拝領によって維持されていた仮初めの秩序=村というコミュニティを破壊する。ファプタの破壊行為は,一見,成れ果ての住人たちのカニバリズムを道徳的に断罪しているように見える。しかしファプタ自身が,成れ果ての住人を喰らいつつ原生生物に喰われ,原生生物を喰らい返すために成れ果ての住人たちを喰らうという,カニバリズム的祝祭の渦中に身を委ねているのだ。彼女は,かつて栄養摂取器官を持たず,〈食う/食われる〉という摂理から除外されていた兄弟姉妹たちに代わって,自ら〈食う/食われる〉の中に身を投じている。それは禁忌(悪)を断罪した(聖)というよりは,悪を遥かに凌駕する情念で悪を喰らい尽くそうとした,と言う方が正しいかもしれない。

左:第10話「拾うものすべて」より引用/中・右:第11話「価値」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

そして成れ果てたちの身体とその想いを喰らったファプタは,やがて母を解放するという「役目」のその先に,新たな「価値」を見出す。

今も役目が突き動かしてくる。こいつらを滅ぼし,母を解放せよと。だが…この熱は,この火の色はなんだ…!この役目の先に何が隠れているというのだ…!そこに『価値』があるというのか。*8

〈食う/食われる〉という自然の摂理,“善悪の彼岸”に身を投じながら,身体すら相対的な「価値」として流通させるコミュニティのシステムを無効化し,相対的な価値やシステム内道徳の〈外部〉へと至ろうとする。ファプタは,「宿命の終わりに…君の価値を君自身で決める時がくる」というベラフの思いに呼応するように,成れ果てを滅ぼすという「役目」の“彼岸”,つまり「憧れ」という絶対的な「価値」を己自身の中に見出そうとする。彼女は成れ果てたちを喰らうことで,その想いである「憧れ」をも喰らい,己の身に引き受ける。

あこがれをいだいたおろかものども。ファプタは母の代弁者であり,おまえたちだ。進むべき道を闇に見て,ここまで来たおろかものだ。ファプタは…!おろかものでよいそす!役目を果たし…ファプタは行く!この火はファプタ自身がくべた!止められるのなら!止めてみるそす!!*9
もちろん,この絶対的な「価値」=「憧れ」は,リコの「憧れ」でもある。第12話「黄金」で,ワズキャンに「ここに来れてよかったかい?」と聞かれ,満面の笑みで「めちゃくちゃ!!来てよかった!!」と答えるリコは,ワズキャンの所業,成れ果ての村の呪われた成り立ち,そしてその結末のすべてを知った上で,その先にある「憧れ」の価値を全肯定している。

アビスの底には,地上の人間の尺度で測られる“善と悪”はもはや存在しない。万人に共通する“教訓”の類もない。個々のキャラクターが,己が信ずる道を突き進む多声的な物語があるだけだ。しかしだからこそ,個々のキャラクターの心情と信念に寄り添った深い物語が可能となるのだろう。そしてそのポリフォニックな声,価値観,物語がより合わさること(ワズキャンの言葉を借りれば「積み重ね」)によって,やがて大穴の障壁を突破しうる「憧れ」へと結実していくのだろう。

現実の僕らも,多かれ少なかれ,コミュニティやシステムの外部にある何らかの価値に憧れている。他者の判断の目に晒されることのない,絶対的に私的な価値に憧れている(そう言えばファプタは「目が多いのすかんそす…」と言っていた)。しかし,僕らは実際にコミュニティやシステムの外部に生きることは叶わない。だからこそ,その「欲望」の成就を『メイドインアビス』のような可能世界に求めようとするのだろう。それは今ここにある現実そのものではないが,決して不可能な現実でもないのかもしれない。ひとまずは,ファプタたちに僕らの「憧れ」を仮託しておこう。

最後に,本作の語り部ヴエコのモノローグでこの記事を締めくくりたい。

二度とは戻らない望郷の彼方ー真の闇の中に,誰にも見つけられなかった光は,確かにあった。でもそれを手にするのは,誰でもない。あなたから生まれた黄金は,価値というくびきから解き放たれて,いま旅立とうとしている。愛こそが呪いだと知っているのに,行く末には闇しかないと知っているのに。だからだろう。だからあんなにも眩しいのだ。*10

 

 

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作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:つくしあきひと/監督:小島正幸/副監督:垪和等/シリーズ構成・脚本:倉田英之/キャラクターデザイン:黄瀬和哉Production I.G),黒田結花/デザインリーダー:高倉武史/プロップデザイン:沙倉拓実/美術監督:増山修関口輝インスパイアード/色彩設計:山下宮緒/撮影監督:江間常高T2 studio/編集:黒澤雅之/音響監督:山田陽/音響効果:野口透/音楽:Kevin Penkin/音楽プロデューサー:飯島弘光/音楽制作:IRMA LA DOUCE/音楽制作協力:KADOKAWA/アニメーション制作:キネマシトラス

【キャスト】
リコ:
富田美憂/レグ:伊瀬茉莉也/ナナチ:井澤詩織/メイニャ:原奈津子/ファプタ:久野美咲/ヴエコ:寺崎裕香/ワズキャン:平田広明/ベラフ:斎賀みつき/マジカジャ:後藤ヒロキ/マアアさん:市ノ瀬加那/ムーギィ:斉藤貴美子/ガブールン:竹内良太/プルシュカ:水瀬いのり/ボンドルド:森川智之

 

作品評価

キャラ

モーション 美術・彩色 音響
5 5

5

5
CV ドラマ メッセージ 独自性

5

4 4 5
普遍性 考察 平均
4.5 4.5 4.7
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

商品情報

*1:野田聡サトル『ゴールデンカムイ』3巻(電子版),p.166,集英社,2015年。

*2:『メイドインアビス』と『ゴールデンカムイ』は,食,排泄,味覚,嗅覚など,一次的欲求や身体的感覚の描写において共通点が多い。〈過酷な自然環境における冒険〉という物語が要請するモチーフ群と言えるだろうか。物語の類型分析の事例として興味深い。

*3:例えば原作第3巻p.128のナナチによる「アビス信仰」の説明など。

*4:Sandel, Michael J.: JUSTICE What's the Right Thing to Do?, Farrar, Straus and Giroux. (マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう』,pp.44-47,早川書房,2010年。)

*5:カニバリズムに関しては,以下の書籍などを参照。
- Sanday, Peggy Reeves: DiVine Hunger: Cannibalism as a Cultural System, Cambridge University Press, 1986. (ペギー・リーヴズ・サンディ(中山元訳)『聖なる飢餓:カニバリズムの文化人類学』,青弓社,1995年。)
- Monestier, Martin:    Cannibales histoire et bizarreries de l'anthropophagie hier et aujourd'hui, le Cherche midi éd., 2000.(マルタン・モネスティエ(大塚宏子訳)『図説 食人全書 普及版』,原書房,2015年。)
- 中野美代子『カニバリズム論』,ちくま学芸文庫,2017年。
- 橋本一径編『〈他者〉としてのカニバリズム』,水声者,2019年。

*6:岡田温司『キリストの身体』,p.62,中公新書,2009年。

*7:同上,p.83。

*8:第11話「価値」より。

*9:同上。

*10:第12話「黄金」より。