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劇場アニメ『アリスとテレスのまぼろし工場』(2023年)レビュー[考察・感想]:生きよ,永遠のデュナミスたちよ

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。

『アリスとテレスのまぼろし工場』公式HPより引用 ©︎新見伏製鐵保存会

maboroshi.movie


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岡田麿里2作目の監督作品となる『アリスとテレスのまぼろし工場』(以下『まぼろし工場』)。本作には,内的・外的閉塞感や停滞感,そこからの離脱といった,これまでの岡田作品で描かれてきた自意識の問題がいっそう色濃く表れている。わかりやすいエンタメ要素で希釈することなく,いわば“岡田エッセンス”の原液を提示した本作は,決して口当たりのよい娯楽作品とは言い難いが,それだけに岡田の問題意識をダイレクトに反映した大作となったと言えるだろう。

 

あらすじ

製鉄所の事故をきっかけに時の歩みを止めた「見伏市」。そこで暮らす菊入正宗は,一切の変化を禁じられた退屈な日々を悶々と生きていた。ある日,正宗は「自分確認票」の「嫌いな人」欄に書き込んでいた佐上睦実に誘われ,不思議な少女・五実と出会う。

 

インカーネーション

14才。碇シンジ,天上ウテナ,『14才の母』,酒鬼薔薇聖斗。

それは何者にもなり得てないからこそ,何者かになることに必死な“過渡期”にあると同時に/にあるからこそ,それ独自の実存的強度を持ってしまう,両義的な存在である。彼ら/彼女らは,様々な可能性を襞として内側に折りたたんだ“蛹”として過渡的に存在する,ある種の特権的実存である。だから僕らは,多くの作品の中で〈14才〉を表象し,〈14才〉に語らせ,〈14才〉を見守ってきた。もちろん『まぼろし工場』という映画を観た多くの人も,この過渡的実存としての〈14才〉を経験し,一つの対自存在として内に抱えているはずだ。しかし僕らは大人になるにつれ,〈14才〉というかつての実存に直に触れることをやめ,それを記憶=記録の中に収納しようとする。フィクションのものであれ,己自身のものであれ,〈14才〉の物語を記憶=記録として対象化し,“モノ”として所有しようと欲する。場合によっては,文字通り“記録媒体(メディア)”の中に物象化して留めおこうとすることもあるだろう。ちょうど1つの物語をアニメの“円盤”に記録し,視聴・消費し,棚に収納することで所有するかのように。

「見伏市」の中に閉じ込められた正宗たちの境遇も,ちょうどこれと似ている。

石井百合子の繊細かつ情報量の多い描線は,正宗睦実らの常に伏目がちな眼差し(それは超常的な神秘に魅入られ,彼らから可能性を奪うべく極限まで見開かれた佐上衞の目とは対照的である)に確かな意志と感情を吹き込みつつ,〈14才〉のフラジャイルな内面を的確に画に落とし込んでいる。それは〈14才〉の“ユニバーサル・スタンダード”ではないとしても,その1つの象徴的な有り様を提示している。

『アリスとテレスのまぼろし工場』予告より引用 ©︎新見伏製鐵保存会 配給:ワーナー•ブラザース映画 MAPPA

そのような〈14才〉である彼らは,製鉄所の事故後,何らかの力によって無時間的な「まぼろし」として生み出され,見伏市という壁の内側で変わらぬ日々を過ごすことを強いられている。それはあたかも,円盤の中に封印された,痛みも匂いも伴わないデジタル・データのようでもある。故に彼らは,「気絶ごっこ」のような痛みの感覚によって自己の生を確認し,五実の生の臭気に嫌悪しながらも,同時に惹かれるのである。

見伏神社の社家として仮初の“権力”を手に入れた佐上衞は,それを神による「罰」と名指す。一方,道端の地蔵のように安閑と世の中を見守る正宗の祖父は,神が「一番いい時期を残しておきたかった」のだと解釈する。同じ“神”でも,“懲罰的・父性的神”と“慈愛的・母性的神”がここで対立し合っているのが面白い。罰なのか,それとも慈愛に満ちたノスタルジーなのか,いずれにせよ「神」は,〈14才〉の物語をデジタル・データのような無臭の「まぼろし」として紡ぎ出し,見伏市という“円盤”の中に封じ込めたのだ。

しかし,と岡田麿里は言うのだ。〈14才〉の物語を神の視点で見下ろすな,と。思い出の所有者という支配的な立場に甘んじるな,と。今一度,あの日の〈14才〉たちの物語に立ち戻り,彼ら/彼女らと同じ目線で世界を見渡し,彼ら/彼女らの生の声を聞き届けよ,と。かくして,僕らは現実世界の五実と共に,円盤=まぼろしの世界の内部へと“受肉”することになる。あたかも,イエスの身体を得て現世に受肉した「神」のように。

 

凍った蛹

ちなみに被造物の世界への“受肉”というモチーフはーー人類史上最大のベストセラー『聖書』を皮切りとしてーーこれまでにいくつもの物語で語られてきた。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『あやつり糸の世界』(1973年),雨宮哲『SSSS.GRIDMAN』(2018年),伊藤智彦『HELLO WORLD』(2019年)。これらの物語では,儚くも哀しい被造物(あるいは人工物)たちが,それにもかかわらずかけがえのない実存を生きる現存在として存在している。現実の存在者はあえてそこに降り立ち,彼らの生からの強烈な照り返しを受けながら,自己の生を見つめ直し生き直すのだ。

そして五実とともに「見伏市」という被造物の世界に降り立った僕らが目にするのは,あらゆる変化を否定され,いわば永遠のデュナミス(可能態)として凍結された人々の世界である。妊娠中の女性は〈母〉のデュナミスであり,仙波はDJのデュナミスであり,正宗は絵描きのデュナミスだったはずだ。しかし彼らはデュナミスのまま「見伏市」の無時間性にピン留めされ,いわば未完成であることを完成=目的として了解することを強いられた,ネオテニックなエネルゲイア(現実態)と化している。

この歪な世界の“秩序”を司ろうとする佐上は,〈14才〉たちに「永遠」を強制し,その可能性を否定しようとする。佐上が五実に対して口にする「ほぼ完成,女完成」というセリフが醜悪に響くのは,五実という現実世界のデュナミスに対してすら,女性性としての「完成」を強い,「神」の所有物として物象化しようとするからだ。睦実が佐上に関して「あのおっさん,女に興味なくて」と吐き捨てるように言うシーンがあるが,それは佐上がホモセクシュアルであることを示唆する以上に,女性性の対象化・物象化に対する彼女の嫌悪感を示しているようにも思える。

『アリスとテレスのまぼろし工場』予告より引用 ©︎新見伏製鐵保存会 配給:ワーナー•ブラザース映画 MAPPA

また,正宗たちには「大人の権利」として車の運転が許されている。これも,未成熟な者たちに成熟の“証”を付与する烙印のようなものかもしれない(もっとも,この技能が最終的に五実を現実に返すことを可能にするというところに,この物語のアイロニーがあるわけだが)。

山と入江によって閉ざされた「見伏市」の中で,正宗が茨に縛り付けられた少年の絵を描きながら感じていたのは,彼らを空間的にも時間的にも閉じ込めてしまった閉塞感だ。そしてそれは,岡田が〈秩父三部作〉を中心に描いてきた閉鎖性に他ならない。山の上のラブホテル,卵,ギターケース,お堂,トンネル,そして彼女が「檻」として認識した秩父というトポスそのもの。*1 「見伏市」に降り立った現実世界の僕らが,五実と共に垣間見るのは,差し当たり〈14才〉たちが感じていた閉塞感の,仮構という形で強調された極限状態に他ならない。

ところで,“円盤”とはよく言ったものだ。現代のメディア史において,記録媒体はほぼ常に回転というメカニズムのもとに成り立ってきた。回転する媒体の中で,物語は無限に反復再生される。それはあたかも,「永劫回帰」が機械的に実演されているかのようだ。しかし現実的には,“円盤”は「永劫」に保存し得るものではない。数十年という年月の中で,物体としての“円盤”は確実に劣化し続け,やがて内部の物語は再生不能になる。ちょうど「見伏市」の内部の物語が,ゆっくりと崩壊し続けているのと同じように。まぼろしたちの世界は,ゆっくりと死に向かっている。

しかし岡田麿里のストーリーテリングは,そこでは終わらない。

 

スイートペイン:両価的感情

漸進的に死に向かうそんな閉鎖世界の中に,岡田は〈陽極の変化〉というわずかな希望を描き込んでいる。その一つが,正宗の絵の上達だ。彼は父・昭宗の日記の中に,次のような言葉を見つける。

正宗は,今日も絵を描いている。いくら絵がうまくなっても,大人になれないのに。未来に結びつくことはないのに。それでも,どんどん,うまくなる。この異常な世界でも,人はいくらだって変われる。*2

これを読んだ正宗はこう言う。

嬉しかったんだ。うまくなるのも,褒められるのも。未来に繋がらなくたって,かまわないんだ・・・・・・楽しくて,ドキドキして・・・・・・俺は,ここで生きてるんだって。*3

正宗は絵がうまくなることそのものの中に,生の喜びを見出す。凍結されたデュナミス,あるいはネオテニックなエネルゲイアという状況の中に見出された,ほんの小さな希望の欠片。そしてその全肯定である。それは,未来に繋がることはなくとも,〈いまここ〉に生きることの喜びの是認である。

そしてもう一つが,〈恋〉だ。

アニメ史上稀に見る長尺のキスシーンの直前,正宗は睦美に,五実と過ごすことによって得た「生きる」ことの実感を語りながら,こう言う。

お前を見てたら,イライラして。お前が話してるの,気になって。むかついたり,でも,なんかドキドキしたり。五実だけじゃない。俺だってーー・・・・・・ちゃんとここに,生きてるんだって。お前といると,強く,思えるんだ。*4

『アリスとテレスのまぼろし工場』予告より引用 ©︎新見伏製鐵保存会 配給:ワーナー•ブラザース映画 MAPPA

思えば,岡田が描いてきた“(失)恋”は常に両価的だった。じんたんは大好きなめんまに「ブス」と言ってしまった挙句,その喪失の痛みを抱えながら思春期を迎える。成瀬順は,想いを寄せる坂上拓実に暴言をぶつけることで心の解放を実現する。相生あおいは失恋を通して「空の青さ」を知る。“恋”は心地よい感覚であると同時に,常にどうしようもなく不快な感情として立ち現れる。それが岡田の描く“恋”だった。

だから原が口にした「スイートペイン」というセリフは,単なるラブコメギャグではないのだ。それは岡田が描こうとした感情的両価性の乙女チックなラベルであり,正宗の言葉によって「俺の,好きは・・・・・・[中略]大嫌いって気持ちと,すごく,似てて・・・・・・なんか,痛くて」*5 という切実な思いへとパラフレーズされるのである。

『アリスとテレスのまぼろし工場』予告より引用 ©︎新見伏製鐵保存会 配給:ワーナー•ブラザース映画 MAPPA

恋は,痛みによって生を実感するための「気絶ごっこ」の,崇高なバージョンに他ならないのかもしれない。そしてともすれば,岡田はラブストーリーを描きたかったというよりも,両価的感情そのものを捉えたかったのかもしれない。愛と憎悪。一緒にいたいと思う気持ちと,逃れたいと思う気持ち。現状維持と現状打破。保存衝動と破壊衝動。エロスとタナトス。いやもっと言ってしまえば,相手への憎悪すらも愛で包み込むような,激烈な感情,タナトスを内包してしまうほどのエロス。そうした壮絶な感情の両価性を〈14才〉という実存の中で実現するのに,“恋”こそがうってつけの感情だったのかもしれない。考えてみれば,「アリスとテレス」という言葉遊びにおける「と」は,1人の哲学者を2人の人物に分けるという意味で〈分断〉であると同時に,2人の人物を結びつける〈連繫〉でもあるのだ。『まぼろし工場』という作品には,そうしたアンビバレントな感情が隅々まで満ち溢れている。

そして五実は,原の「スイートペイン」に感染するかのように,正宗に「痛い」を伴う恋をする。実の父を象ったまぼろしへの恋と,その関係に否を突きつける睦美という構図は,まさしくエディプス・コンプレックスの様相を呈している。しかしその「否」は,父性的・懲罰的な「否」ではなく,母性的・慈愛的「否」である。睦実はまるで母のように優しく,五実と正宗の恋を否定する(この時の上田麗奈の演技は極上だ)。

ねえ,五実。トンネルの先には,お盆だけじゃない。いろんなことが待ってるよ。楽しい,苦しい,悲しい・・・・・・強く,激しく,気持ちが動くようなこと。友達ができるよ。夢もできる。挫折するかもしれないね。でも,落ちこんで転がってたらまた,新しい夢ができるかもしれない・・・・・・いいなあ。どれもこれも,私には手に入らないものだ。だから,せめて,ひとつぐらい。私にちょうだい。[中略]正宗の心は,私がもらう。*6

睦実は五実に「未来」を託す。しかし正宗との恋はだけは独占しようとする。それは決して未来へと繋がることないが,かけがえのない〈いまここ〉の感情の全肯定だ。正宗と睦実の恋は,仮に未来と可能性を奪われていたとしても〈いまここ〉を全身全霊で慈しむという意志の表明である。それはちょうど,『空の青さを知る人よ』のラストシーンで,相生あおいが秩父の空を「ああ,空…くっそ青い」と肯定した際の感情に対応している。もっとも,あおいの場合は,この感情がしんのとの“失恋”から生まれるのだが。

こうしてまぼろしたちは,五実という現実存在に未来を託しつつ,未来へと繋がらない〈いまここ〉の恋をする。その束の間の生の実感を全肯定する。

 

〈回帰〉する場所

したがって『まぼろし工場』は,閉鎖と停滞=まぼろしの世界を“否定”し,解放と成長=現実世界を“肯定”するといったような単純な物語なのではない。“現実を見よ”“現実に帰れ”といった安直な物語でもなければ,素朴でオプティミスティックな“未来志向”の物語でもない。そうではなく,過去の「あの日」に,己の内に充溢した感情が確かに存在したことの確認と是認,そしてそこからの未来への跳躍の物語なのである。岡田が描き出す物語には,過去に眼差しを向けながら,逆噴射のように未来へと進み行く両義的なダイナミズムがある。ドイツの哲学者・ヴァルター・ベンヤミンも,パウル・クレーの「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」の図像を借りながら,そのようなダイナミズムを能弁に語った。少々長くなるが,たいへん興味深い文章なので引用しておこう。

[新しい天使]は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに,彼はただひとつの破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて,それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は,なろうことならそこにとどまり,死者たちを目覚めさせ,破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて,それが彼の翼にはらまれ,あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を,背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき,その間にも彼の眼前では,瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの,それがこの嵐なのだ。*7

『まぼろし工場』を観た人にとっては,この「天使」の姿が五実に重なって見えることだろう。未来(進歩)とは前向きの前進ではなく,後ろ向きの前進である。だからこそ,未来を託された五実は,ラストシーンで廃墟と化した製鉄所を再訪し,正宗が描いたと思しき窓の絵を愛おしそうに眺めるのである。ちょうど,『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のじんたんが,最終話で「秘密基地」を再訪し,めんまの筆跡を慈しむように眺めたのと同じように。

僕らは記憶という媒体の中に収納した〈14才〉=「あの日」を,1つのパッケージとして対象化・物象化し続けていてはいけないのだろう。時に過去へと立ち戻り,それを生き直し,自分が「あの日」,確かに心の温もりを感じていたこと,冷たい痛みを感じていたこと,笑ったこと,泣いたことを〈いまここ〉の出来事として想起すべきなのかもしれない。そうした〈回帰点〉を常に心に抱きながら,僕らは未来へと時間を進めていくのだろう。

かつて中島みゆきは「時代はまわる」と歌っていた。そして今,彼女は「未来へ」と歌う。数十年の歳月を隔てたこの2つの歌詞を並列した時,今から過去へ,過去から今へという時の巨大なーーまさしく「嵐」のようなーー遠心力によって,僕らの「未来」が解き放たれていくような気がしてくる。

 

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作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
脚本・監督:岡田麿里/副監督:平松禎史/キャラクターデザイン:石井百合子/演出チーフ:城所聖明/美術監督:東地和生/色彩設計:鷲田知子3Dディレクター:小川耕平/撮影監督:淡輪雄介/編集:髙橋歩/音楽:横山克/音響監督:明田川仁/音響制作:dugout/製作プロデューサー:木村誠/アニメーションプロデューサー:野田楓子橘内諒太/企画・プロデューサー:大塚学/主題歌:中島みゆき「心音」/制作:MAPPA

【キャスト】
菊入政宗:榎木淳弥/佐上睦実:上田麗奈/五実:久野美咲/笹倉:八代拓/新田:畠中祐/仙波:小林大紀/薗部:齋藤彩夏/原:河瀨茉希/安見:藤井ゆきよ/佐上:佐藤せつじ/菊入時宗:林遣都/菊入昭宗:瀬戸康史

 

作品評価

キャラ

モーション 美術・彩色 音響
4.5 3.5

5

4
CV ドラマ メッセージ 独自性

5

3 5 5
普遍性 考察 平均
5 5 4.5
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

商品情報

 

*1:岡田麿里『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』,文藝春秋,2017年。本書には,山の囲まれた秩父を「檻」に例える件が数箇所見られる。

*2:岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』,p.174,KADOKAWA,2023年。台詞は原作小説から引用しているため,映画とは多少の異同がある可能性があることをお断りしておく。

*3:同上,p.175。

*4:同上,pp.157-158。

*5:同上,p.113。

*6:同上,pp.221-222。

*7:ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション Ⅰ』,p.653,ちくま学芸文庫,1995年。