アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

2018秋アニメは何を観る?(10/14暫定)

朝から晩まで毎日アニメ漬けの生活…とても憧れますが,社会人をやってるとちょっとムリ。毎期絞るのが大変です。

 

今期アニメも一通り放送されましたので,現時点で視聴継続予定の作品を簡単なコメント付きで挙げておきます(期待度順)

 

1『SSSS. GRIDMAN』

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第1話からBGMを抑えた緊張感のある演出で,非常に好感が持てました。

感覚的には,オタク第1世代・第2世代・第3世代の感性をうまく接続した感じで,大いに期待です。

gridman.net

 

2『からくりサーカス

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第1話からぐいぐい引き込む展開で今後が楽しみです(原作のマンガは未読です)。

「人形」というテーマは汲めどもつきぬ源泉。渋沢龍彦攻殻機動隊,NieR:Automataなどなど,広がりのあるテーマですね。小山力也さんのCVも最高です。

karakuri-anime.com

 

3『ソードアート・オンライン アリシゼーション』

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アンダーワールド」の設定は,村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドを思わせます。最先端技術による意識・感覚・記憶のシミュレーションという問題系が1期より深まっているように思えます。

sao-alicization.net

 

4『色づく世界の明日から』

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凪のあすから』(2013)の篠原俊哉監督ということもあり,期待大。

超ハイグレードな美術と配色が,物語の単なる修飾要素ではなく,作品の主題にダイレクトに関わっているところが大きなポイント。技術力がテーマに説得力を与える好例となるかもしれません。

www.iroduku.jp

 

5『ゾンビランドサガ』

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はじめはあまり期待していなかったのですが,第2話を観て,ここまで何でもありだと表現の幅が広がるもんだなと感心したものです。何より宮野真守くんがこんなに楽しそうにしているのを見たことがない。

zombielandsaga.com

 

6『風が強く吹いている』

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ハイキュー!!』の制作Production I.Gとキャラデザ千葉崇洋氏ということで,だいぶビジュアル的な趣が似ています。原作の三浦しをんは『舟を編む』がアニメ化されましたが,やや薄味でした。今回はぜひかっ飛ばしてもらいたいものです。

kazetsuyo-anime.com

 

以上です。他にも『ゴブリンスレイヤー』『青春野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』『うちのメイドがウザすぎる』など気になるものもありますので,随時追加していきたいと思います。

 

 

 

アニメ『ひぐらしのなく頃に』レビュー:近接する物語 ー「不気味なもの」を受け入れよ

※このレビューはネタバレを含みます。

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©2006竜騎士07/ひぐらしのなく頃に製作委員会・創通

www.oyashirosama.com

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4.5 3 3 4.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
5 4 4.5 5
独自性 普遍性 平均
5 5 4.35
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

(ゲーム原作『ひぐらしのなく頃に 粋』プレイ済。300時間に及ぶ『粋』のプレイで細部の知識があるために,もはやアニメ作品を純粋に評価することは難しい。以下,『ひぐらしのなく頃に1期』(以下『ひぐらし1期』)の範囲外の情報を含めたレビューになることをお断りしておく)

近接する物語

物語はますます我々に接近しつつある。

かつて物語が“勇気”“希望”“冒険”などといった大振りの意味を担っていた時代,僕らはそこにある種の“遠さ”を感じていたはずだ。主人公たちに感情移入はできるが,やはりそこに描かれた心理描写は多かれ少なかれ眩しく美化されたものだった。主人公たちが置かれた世界に憧れは抱くが,やはりそれは創られたものだった。

しかし近年,とりわけ「日常系」や「空気系」といったジャンルが注目された2000年代以降,物語はそうした豪奢でよそよそしい衣を脱ぎ捨て始め,もっと小振りで,もっと身近で,いわば等身大にまでミニマイズされたものが次々と生み出された。僕らは物語に対して“遠さ”よりも,“近さ”を感じるようになった。

『ひぐらし1期』は,そうした2000年代の時代的風潮の中で,「物語の近接性」を極めて陰鬱な形で利用した作品であると同時に,それを物語内の人物たちに経験させた上で鑑賞者に追体験させるという,特殊な構造をとった作品だった。

『ひぐらし1期』で語られる「鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」「目明かし編」「罪滅し編」(「暇潰し編」はやや異なるので除く)は,それぞれ登場人物はほぼ完全に一致しているが,そこで生じる陰惨な事件は,まるで別の物語のように展開を異にする(例えば「鬼隠し編」では,圭一がレナと魅音を惨殺するのに対し,「目明かし編」では詩音が連続殺人犯になる)。

『ひぐらし1期』の時点ではまだ暗示される程度だが,このまったく別の物語の列挙は,超常的な力を持った古手梨花が,誰も死なない平和な世界を望んでタイムリープを繰り返していることによって生じている。個々の物語はまったく違う世界線の話であり,梨花は“ちょっとしたきっかけで仲間たちが残虐行為に手を染めてしまう物語”のバリエーションを反復的に体験している。そして彼女は,自分だけが結末を知っているという孤独感の中で,半ば諦念の状態にある。

『ひぐらし1期』の中でもっとも劇的なのは,突如「罪滅し編」の圭一が「鬼隠し編」で自分が犯した罪(レナと魅音の殺害)を思い出すシーンである。圭一は,本来,絶対に交流するはずのない別世界での物語を“思い出した”ことで,自分が残酷な殺意を持つという可能世界の存在を認識する。「鬼隠し編」の残酷な圭一が,一瞬にして,あり得たかも知れない圭一として「罪滅ぼし編」の圭一に迫り,圭一は己のうちに潜む“残虐性”という不気味な側面に気付かされ,打ちのめされるのだ。

「不気味なもの」

そもそも近接する物語は,近いから親密であると同時に,近いからこそ不気味でもある。

かつてフロイトは,語源的データに基づき,「不気味なもの(das Unheimliche)」を「熟知したものや古くから知られているものによって生まれる恐ろしさ」と定義した。彼によれば,「不気味なもの」とは「もともとは新しいものでも異質なものでもなく,精神生活にとって古くから馴染みのものであり,ただ抑圧プロセスのために,疎遠なものになっていただけ」のものである(「不気味なもの」:中山元訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社古典新訳文庫所収)。

「不気味なもの」は己の中にある。今や圭一にとって,「鬼隠し編」の“残酷な圭一”は,遠い世界のあり得ない存在ではない。むしろ,同じような残虐性は自分の中にもあるのであり,今ここにいる自分のすぐ近くに,1つの可能性として隣接している。こうした「自分の中の不気味なもの」に気付き,受け入れた事実を梨花は「奇跡」と呼び,この陰鬱な世界を平和な世界へと導くきっかけとして捉えるようになる。

物語に“近さ”を感じるようになった現代の僕らは,この圭一の体験自体を身近に,そして不気味に感じる。残虐性は彼方にあるのではない。ともすれば,僕ら自身の中にも存在するかもしれないのだ。

「不気味なもの」を受け入れよ

昔ある惨殺事件が起こった時,『ひぐらし』の影響が指摘され,メディアが「斧で敵を殺していく」ゲームだと紹介したことがあった。このように報道したメディアと,それに賛同した人々は,おそらく『ひぐらし』を自分とは無関係の“遠さ”へと放擲したのだろう。「あんな残酷な事件とそのきっかけになったゲーム(物語)は,私たちとは無縁である。だから排除せよ」というわけだ。無論,彼らは『ひぐらし』の中で描かれていた「不気味なもの」の本質に対して無理解だった。

作品と向き合わない人達の誤解は,作品を都合よく解釈した犯人の曲解と全く同じだろう。曲解が作品を貶め,誤解が作品を滅ぼす。

言うまでもないことだが,『ひぐらし』シリーズの本意は,いたずらに残虐シーンを描くことではなかった。続く『ひぐらしのなく頃に解』では,主人公たちが己の中に潜む「不気味なもの」をすべて引き受け,それを乗り越えつつ「平和な世界」を実現するという“物語”が導入されることになる。

劇場アニメ『聲の形』(2016年)レビュー[考察・感想]:挫折するコミュケーションは,それでも美しい

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会

koenokatachi-movie.com


www.youtube.com

 

コミュニケーションの機能不全

唐突だが,コミュニケーションは挫折する。文字もサインも,そして声ですら,思考を残りなく伝える透明な媒体ではあり得ない。メディアを介した瞬間,決定的なズレが生じ,理解しようとした刹那,個の経験が介在する。時と距離はさらに事態を悪化させる。そこに“障がい者/健常者”という区別はない。コミュニケーションはすべての人間において失敗する。その点,コミュニケーションは神のごとく平等である。

しかし挫折するからこそ,不十分だからこそ,人はコミュニケーションを継続する運命にある。『ドラゴンボール』のセルや『エヴァンゲリオン』の人類補完計画や『シドニアの騎士』の落合のように,他者を取り込んで他者を無効化し,コミュニケーションをゼロにすることは不可能なのだ。それはもはや人とは言えぬ,異形の怪物である。

その現実を受け入れることは人には難しい。人は(とりわけ“健常者”は)“完全無欠のコミュニケーション”という幻想を抱いてしまう生き物だからだ。それが子どもならなおさらである。

ろう者である硝子の登場は,コミュニケーションに内在するこの〈機能不全〉という本質を将也たちに端的に示すものだった。声だろうが手話だろうが,コミュニケーションはそもそも失敗する。硝子だけがコミュニケーションから疎外されているのではない。クラス全員が疎外されているのだ。彼女の障がいは,このことを“健常者”に顕示したというだけのことである。この現実を突きつけられ,仮初めの安定を得ていたクラスという共同体は動揺する。透明で従順な媒体と思われた「声」が,形と重みを伴って彼らの前に立ちはだかる

怪物にならずに人の身でコミュニケーションを回避する方法はいくつかある。1つは,他者を排除し,“敵の敵は味方”という幻想の元に再び仮初めの同化を得ること。これが“いじめ”である。人は排除の原理によって共同体の調和を維持するという狡知に長けた生き物なのだ。

もう1つの方法は,だ。

将也はいじめの加害者となる一方で被害者にもなり,また自死を決断しながらも硝子の自死を止めるという経験をすることで,この2つの回避方法が倫理的ではないということに気づいたはずだ。故に彼は,当の硝子に,「生きること=コミュニケーションの継続」という道をとることを告白する。

 植野の「聲」

声は透明でも従順でもない。それは濁り,重く,扱いづらい“モノ”そのものだ。この作品のタイトルに「声」よりも視覚的情報量の多い「聲」という漢字が当てられた意味がここにある。

植野は不十分ながらもこのことに気づいていたという点で,実は最重要人物の一人なのである。彼女は硝子と硝子の母に,まるで鈍器のように聲をぶつけるが,それは彼女が,聲によって想いを十全に伝えることが不可能なことを当の硝子によって理解させられていたからである。植野という人物を“嫌な女”のようにキャラ設定のレベルで理解してしまうと,この作品の本質を捉え損なうだろう。

 〈メメントモリ〉と結弦

そしてコミュニケーションの不可能性を最も理解していたのは,硝子の妹である結弦かもしれない。だからこそ彼女は,意味の差延が生じにくい写真というメディアを選択するし,また,硝子の「好き」を「月」と聞き間違えたことを将也が告白した時,あえて答えを教えなかったのだ。相互理解はそう簡単には成立しないのだから。

そしてこの作品がすぐれている最も大きなポイントは,とりわけ結弦の写真と祖母の死によって,〈メメントモリ〉が暗示されている点である。

コミュニケーションが永遠に続くのなら,機能不全も差延もやがては解消されるかもしれない。そうなることを期待し,“日常系”よろしく永遠に対話を続けることができれば,それは間違いなく楽園であろう。しかしそれもまた幻想である。硝子と将也のコミュニケーションの営みにも,いつか必ず“死”というピリオドが付される。この作品を1つの娯楽として消費している僕らも,この現実を忘却することはできない。

繰り返そう。コミュニケーションは挫折する。

だが,彼ら/彼女らの,成功へ至らんとする束の間の営みそのものは,咲き誇る桜のように美しいはずだ。

作品評価

キャラ モーション 彩色 音響
4.5 4 5 4
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 5 5
独自性 普遍性 平均
4 5 4.5
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

商品情報

映画『聲の形』Blu-ray 初回限定版

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  • 発売日: 2017/05/17
  • メディア: Blu-ray
 
映画「聲の形」

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  • メディア: Prime Video
 
聲の形(1) (週刊少年マガジンコミックス)

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  • 作者:大今良時
  • 発売日: 2014/01/17
  • メディア: Kindle版
 
聲の形(2) (週刊少年マガジンコミックス)

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  • 作者:大今良時
  • 発売日: 2014/01/17
  • メディア: Kindle版
 
聲の形(3) (週刊少年マガジンコミックス)

聲の形(3) (週刊少年マガジンコミックス)

  • 作者:大今良時
  • 発売日: 2014/03/17
  • メディア: Kindle版
 
聲の形(4) (講談社コミックス)

聲の形(4) (講談社コミックス)

  • 作者:大今 良時
  • 発売日: 2014/06/17
  • メディア: コミック
 
聲の形(5) (講談社コミックス)

聲の形(5) (講談社コミックス)

  • 作者:大今 良時
  • 発売日: 2014/08/16
  • メディア: コミック
 
聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(6) (講談社コミックス)

  • 作者:大今 良時
  • 発売日: 2014/10/17
  • メディア: コミック
 
聲の形(7)<完> (講談社コミックス)

聲の形(7)<完> (講談社コミックス)

  • 作者:大今 良時
  • 発売日: 2014/12/17
  • メディア: コミック
 

 

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TVアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』レビュー[考察・感想]:かくれんぼは終わらせなければならない

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©ANOHANA PROJECT...
キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 4 5 5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
5 5 4 5
独自性 普遍性 平均
3 5 4.6
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

以下,劇場版と併せた評

「排除の論理」という業 

僕らは人を排除することで成立するゲームをいくつも知っている。鬼ごっこ,色鬼,フルーツバスケット,かくれんぼ。仲間を除けることで生きることが成り立ってしまうという,とてもとても悲しいルールを,僕らは子どもの頃から体験している。というより,それは人類の歴史に宿命のように張り付いているのだ。鬼と呼ぶのであれスケープゴートと呼ぶのであれ,人はこの悲しい業をこれまでずっと受け入れてきたのだ。

劇場版では,主人公たちが遊ぶゲーム「ノケモン」を,めんまが「除け者=外人」と解釈するシーンがはっきりと描写される。彼女はロシア人とのクォーター(外人)であり,常に輪から排除される疎外感を抱き続けて来た。その彼女を,じんたんたちは自然に迎え入れる。ノケモンの「ともだちこうかん」が無線でなく有線なのは,単なる古風なローテクの演出ではない。それははっきりと目に見え手で触れることのできる“絆”なのだ。にもかかわらず,死の運命が,めんまを決定的に輪の外へと除けてしまう。

何故めんまは銀髪碧眼なのかー親子という容赦のない絆

ところで,この作品は,2つの対照的な親子の絆を描いている。じんたんの父は,ややエキセントリックな親子関係を築き,あたかも放任主義であるかのように見えるが,その実,息子の一挙手一投足まで把握している愛情豊かな父親である。亡くした母の愛情分をさりげなく補う,まさに心の絆だ。一方,めんまの母は,じんたんたちに排他的な振る舞いをするが、それは娘を失ったショックからだけではないだろう。彼女の髪と眼の色が暗示するように,彼女自身も,娘と同じような疎外感をかつて経験したはずなのだ。遺伝という容赦のない絆。娘の死後も継続する,閉鎖的で排他的な絆はそこから生まれたのだろう。

僕らが銀髪碧眼の“めんま”という儚げなキャラ造形を見て切ない気持ちになるのは,疎外というものを否応なく生み出す人の業が悲しいからではないだろうか。このアニメがかくれんぼのシーンを基調としているのは,かくれんぼが人の業の象徴であり,悲しいからだ。

かくれんぼは終わらせなければならない

しかし僕らは,除け者を除け者のままにし続けてはいけない。全員が鬼に見つかり,鬼と人の区別がなくなった夕暮れ時を,手に手をとって家路につかなければならない。かくれんぼは終わらせなければならないのだ。

 

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 Blu-ray BOX(完全生産限定版)
 

 

 

TVアニメ『ハイスコアガール 』(2018年)レビュー:グッバイ・ノスタルジア

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©押切蓮介/SQUARE ENIX・ハイスコアガール製作委員会 ©BNEI ©CAPCOM CO., LTD. ©CAPCOM U.S.A., INC. ©KONAMI ©SEGA ©SNK ©TAITO

hi-score-girl.com

「なつかしー」という気分

 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)で山崎貴監督は,彼のお家芸とも言えるVFXを駆使し,“昭和”を想起させる膨大な量のヴィジュアル情報を緻密に再現した。看板のサビや作業衣のシミから雑草の一本一本に至るまで,あらゆるものに刻み込まれた“昭和”という記号を前に,僕らは胸を締め付けられるようなノスタルジーを覚えた。それは今ここにはもう存在しない,失われた時への憧憬に他ならない。そこで表された風景も人情も思想も,今ここにはないからこそ貴重であり,今ここにないからこそ,「ALWAYS」という言葉によって時代を超えた抽象的な価値として普遍化されていたのだ。

『ハイスコアガール 』は,同じく過去の実時代を舞台としながらも,あらゆる点で『ALWAYS』の逆を行った作品だった。時代は平成が始まったばかりの1990年代初頭。トゥーンレンダリングを用いた作画は,原作コミックよりも描線の情報量が少ないほどであり,『ALWAYS』のような細部の記号性は大胆に捨象されている。当然,当時の時代性を表す記号も,各種のゲーム画面と何度か登場する駄菓子屋のみで,かなりミニマルに抑えられている。『ストⅡ』シリーズを中心とした90年代のゲームは,無論,“失われた時代の象徴”などではなく,今の僕らの娯楽の感性と地続きで繋がったものである。

つまりこの作品で描かれているのは,今ここと連続した,“ちょっと昔”の想い出なのだ。それは街で偶然見かけた風景や事物を目にして「なつかしー」と口をついて出るような,カジュアルな気分である。しかしだからこそ僕らは,この作品を“自分の生きた時代”の身近な表象として楽しむことができた。いわゆる“ノスタルジア”と呼ばれるような普遍性を獲得する前の,ささやかだが,愛着の持てる喜劇として楽しむことができたのだ。

ボタン押下の楽しさ

しかも,この作品で語られている「なつかしー」の描き方は実に秀逸だった。

その1つは,「ゲームボタンを押す」という具体的行為への言及である。

この作品では,ボタンの形状や配置,はたまたその故障など,ゲームボタンに関する言及が多い。ここで思い出されるのは,評論家・さやわかの興味深い考察である。さやわかは『僕たちのゲーム史』(2012年)の中で,コンピュータ・ゲームにおける「変わらないもの」,つまりその本質的な要素として,「ボタンを押すと反応する」という極めてシンプルな原理を挙げている。テレビ画面のような,一見,干渉不可能でリジッドに見える対象を,「プレイヤーがボタンを押すことで[…]『意外にも』変えることができる。これがプレイヤーにとっては新鮮な驚きであり,その驚きの体験こそがゲームの核だと言えます」(『僕たちのゲーム史』p.13)

コンピュータ・ゲームの登場以来,キーからボタンへ,さらにはスティックやステアリングやペダルへと,入力デバイスの形状は進化・多様化してきたが,この「ボタンを押すとプログラムが反応する」という原理自体は変わっていないというわけだ。

ところがさらに興味深いのは,さやわかが,2018年に刊行された「ゲンロン8」所収の論考の中で,とりわけXbox360以降のコントローラーの標準化とオンラインゲームの普及により「ボタンを押す」という行為への意識が希薄になっていることも指摘していることである。

「オンラインゲームが主流となり,入力デバイスが標準化された結果,『ボタンを押すと反応する』というゲームの本質が見失われると,何が起こるか。筆者の考えでは,その忘却こそが[…]殺人や多額の金銭授受のようにシリアスな出来事を,手軽に,易々と行ってしまう『ゲームらしさ』(引用者注:現実世界をまるでゲームのように考えて気軽に犯罪を犯してしまう状態のこと)を招くものだ」(『ボタンの原理とゲームの倫理』「ゲンロン8」所収)

ここからさらに,さやわかは情報技術時代における「アーキテクチャの倫理」という問題を暗示しつつ論を閉じるが,その点についての具体的な是非は,今後の彼の議論を待つ他ない。いずれにせよ,さやわかの指摘した「ボタンを押すと反応する」という原理とその「忘却」という問題がリアリティを持っていることは間違いないだろう。

思えば,子どもの頃に初めてコンピュータ・ゲームに触れた時,「ボタンを押す」という行為は今よりも重大な意味を持っていたはずだ。「ボタンを押すとジャンプする」「ボタンを押すとビームが出る」という仕組みに,今よりもっと純粋に感動していたはずなのだ。だからこそ,例えば「ファミコンの四角ボタンが引っかかったまま元に戻らない」といった事故が,「ボタンを押す」という行為の重大性を逆説的に意識させてくれることにもなった。ところが,ゲームパッドの標準化やゲーム自体への慣れが進んでくると,僕らはゲームをしている最中に「ボタンを押している」という意識をややもすると失ってしまう。

『ハイスコアガール 』第1話で,ボタンの外れた筐体の『ストⅡ』をダルシムの小キックだけでクリアした大野を見てハルオが打ちのめされるエピソードや,第8話の「ストⅡX大阪大会」で,ハルオが大野に勝利した後,大野の筐体のボタンが故障していたことを知って失意のどん底に落ちるエピソードなどは,こうした,プリミティブだが本質的なゲーム体験を思い起こさせてくれる重要かつユーモラスな描写だった。ここに「なつかしー」の内実の1つがある。

身体的衝突とラブコメ

もう1つは,「リアルな他者の存在するゲーム空間」である。

もちろん,現在のゲームセンターにもリアルな他者は存在する。しかし『ハイスコアガール』の舞台となるゲームセンターは,ちょっとしたことで対戦相手との罵り合いや乱闘が発生するような,ややダーティな場として描かれる。ローカル色の強い,こうした“ちょっと昔の”ゲームセンターの趣は,少なくとも現在都心に見られる大型のアミューズメント・アーケードのクリーンな空間にはないものだろう。

このリアルな他者との身体的コリジョンという要素が,格ゲー内の出来事がリアルでも起こるというコメディとして活用されているのはもちろんである。しかし本作の真骨頂は,これをラブコメに接続したことなのだ。

大野はどういうわけか極端に無口であり,基本的なコミュケーション方法は「頭突き・肘打ち・裏拳・足踏み・裾つかみ」である。早くも第1話から,大野はプッツンカップルとリアルな格闘を繰り広げ楽々と勝利するのだが,その後のハルオとのコミュニケ―ショにおいても,感情が高ぶるととかく頭突きや肘打ちを食らわす。そしてこれが二人のコミュニケーションの,スキンシップというにはやや痛みを伴う基本モードとなる。

さらに,相手の姿が見えない「対面型」のプレイシーンと,相手との距離が縮まる「協力型」のプレイシーンを導入することで,ハルオと大野の距離感をうまく表しているのもこの作品の特徴である。協力プレイをする間,大野はハルオにお得意の頭突きを繰り出す。ハルオはそこから大野の気持ちを読み取る。実に微笑ましい“対話”シーンだ。

そしてハルオと大野の身体的コリジョンは,第8話の川辺の取っ組み合いでクライマックスを迎える。まるで少年どうしの喧嘩のように殴り合った(というより大野が一方的にハルオを殴ったのだが)後,ハルオのプレゼントした「がしゃどくろの指輪」を握りしめる大野の姿は印象的だった(このシーンは原作と決定的な点で演出が異なる)。この後,二人の距離は一気に縮まるのだ。

最終話,ハルオの母の奸計により二人がホテルの同室に泊まることになった時,“それらしきこと”が何もなかったというのも,これまで繰り返されてきた身体的衝突ときれいなコントラストを生み,いかにもハルオ的・大野的で,いじらしく甘酸っぱい純愛を感じさせるエピソードだった。

この作品が“ゲームオタクと超絶無口なお嬢様との恋物語”という無理ゲー設定を主軸としていながら,まるでコトコト煮込んだクリームシチューのようなほっこりとした調和を感じさせるのは,こうした,身体性を丁寧に描きこんだ舞台設定の妙味のおかげである。

 

さて,アニメはもう一人のヒロインである小春の激白を最後に,唐突に最終回を迎えてしまった。「続きはOVAで」というややズルイ形式をとったわけだが,無論,僕らはこの3人の恋の行く末を最後まで見届ける義務がある。僕らの「なつかしー」に小さなピリオドを打つためにも,しばらく待つこととしよう。

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4.5 4.5 4 4.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 4.5 4.5 3
独自性 普遍性 平均
4.5 3 4.1
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

アニメ『未来のミライ』レビュー:ミ二マムな世界はスクリーンに映えるのか

※このレビューはネタバレを含みます。

f:id:alterEgo:20190228152245j:plain

©2018 スタジオ地図

mirai-no-mirai.jp

キャラ モーション 美術・彩色 音響
3 3.5 4.5 4.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
2.5 2.5 3
独自性 普遍性 平均
3 3 3.3
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

細田守監督は,これまで「世界改変」「異界」「極限状態」といった大がかりな設定で物語を作ってきたわけだが,本作ではそうした仕掛けを一切禁じ手にし,ミニマムな物語を作ることに徹している。舞台はほぼ家の中のみ。大きなドラマもない。またタイトルやPVから誤解しがちだが,この作品は“タイムトラベルもの”ではない。「犬の人化」と「未来からの来訪」というまったく異なる現象が無条件で並列されている点で,そこにSF的な設定の厳密さはない。むしろ単なる少年の夢だったと解釈できる程度の要素だ。

昨今,劇場アニメですら大振りの物語を作ることが困難になりつつある。これまで誰もが目を背けてきたこの現状を真正面から認め,自覚的にミニマムな作品を提示したという点で,これはある意味画期的な作品かもしれない。

本作で語られる一つ一つのエピソードは,まるでビーズのように小粒で魅力的だ。例えば,主人公の少年と,どういうわけか人化したペットの犬と未来から来た妹に課せられる最大のミッションは,「お父さんにばれずに雛人形を片付ける」というもの。世界を変えるでもなければ,愛する人との別離に耐えながら子育てするわけでもない。観客が小さな小さな出来事を微笑ましく眺めることの出来る作品。これまでの劇場アニメにはなかった極小の娯楽かもしれない。

しかし,この作品を全体として見た場合,どう評価すればいいのか大変に悩むのだ。「子育て家族や,子育ての終わった人には評価されるだろう」という意見を目にするのだが,果たしてそうだろうか。確かにこの作品が,子育てという行為に何らかの思い入れがあり,一定水準以上の生活を営む人たち―言葉は悪いかもしれないが“リア充家族”― に向けられているのは確かだろう(逆に言えば,非リアには見向きもされないことを覚悟しており,その意味でもこの作品はミニマムだ)が,その当のターゲットに対して,「ファミリーヒストリーは尊い」「子育てには学びがある」以上のメッセージは伝わっているのだろうか。

あるいは,細田は「[夫婦は]子どもが生まれた瞬間に自分たちがどういう役割分担で,どういう心構えで,どういう夫婦関係でやっていくかをもう一回話し合わないと,前に進めない。[…]つまり,関係性を『再定義』しないと,やっていけないわけです」と言っているのだが(『未来のミライ』パンフレットより),こうしたことは,子育て家族にとって「子育てあるある」以上のことではないのではないか。

細田は「『家族を知る』話=『世界を知る』話にしたかったんです」とも言っている(同上)。「家族」を「世界」とみなすことには異論はない。ミニマムな世界を描くことに徹しようとした彼の自覚から生まれた思想なのだろうから,なおさらだ。しかしだとしても,この作品に「知る」契機となるほどのメッセージ性があると言えるのか。

あるいは細田は今後,観客が「あるある」といって自己の体験を追認しながら微笑む,極小の喜びを作品化していくのだろうか。だとすれば,劇場アニメはかなり大きな岐路に立たされたのかもしれない。大きな物語を語り続けた宮崎駿の「後継」と目された人物(その言い方自体,僕はいろいろな意味で疑問に思うのだが)が,ここまでミニマイズされた物語をスクリーンに映すという実例を作ったのだから。

アニメ『ひそねとまそたん』レビュー:kawaiiは飼えるー愛玩されたゴジラたち

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 © BONES・樋口真嗣・岡田麿里/「ひそねとまそたん」飛実団

 

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4 4 4 4
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 4.5 3 3
独自性 普遍性 平均
4 3 3.75
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

制御不能なGod-zilla

この作品は『シン・ゴジラ』と併せて評価すると面白い。あるいは,作品自体が,樋口監督自身による『シン・ゴジラ』への解答の一つになっているとも言える。

『シン・ゴジラ』では,ゴジラという存在(“Godzilla”という呼称にGod=神が含まれているのは言うまでもない)が人間社会の外部から襲いかかる超常的存在として描かれた(ゴジラ発生の原因となった放射性廃棄物について,それが人間社会の内部にあるものなのか,外部にあるものなのか,そうした問題を樋口や庵野がどう考えているかといったことについては,無論ここでは論じない)。人間たちは必死でゴジラの進化傾向と行動パターンを「予測」し,それはある程度までは成功する。しかし,ゴジラを「制御」するところまでは行かない。必然の結果として,自衛隊に始まる人間組織はゴジラという暴威を無効化しようとする行動に出る。

こうした人間とゴジラとの関係は,僕ら日本人と自然災害との関係にほぼ一致する。僕らは台風や地震を「予測」は出来るが,「制御」は出来ないという限界の中で生きている。このような現実を正面に据えて描いているという点で,『シン・ゴジラ』は紛れもなくリアリズム作品の部類に入る。

 まそたん=ゆるキャラ化されたゴジラ

『ひそまそ』は,このような関係性に対し,アニメというフィクションの立場から解答した作品だという見方が出来る。ここでは,ドラゴン(国を守る神的存在であることが暗示されている)が人間社会の内部に馴化されており,事もあろうに人類のテクノロジーの結晶である戦闘機に身をやつしてさえいる。つまり『ひそまそ』の世界は,フィクションという強力な道具立てによって,人間が神を「制御」することにある程度成功しているのだ。

それだけではない。この作品が決定的に面白いのは,ひそねというキャラクターの妙味によって,「制御」が「愛玩」にまで高められているという点だ。神獣をペロペロするなど,『シン・ゴジラ』の世界では誰も思いつかない。それを『ひそまそ』は実にカジュアルにやってのけている。丸みが強調され,ディテールが省略されたドラゴンたちのデザインは,紛れもなく“ゆるキャラ”のそれである。

ちなみに,シリーズ構成の岡田麿里がまそたんのデザインについて述べた以下の発言はなかなか面白い。「[…]目はべた塗りだし,キティちゃんとかミッフィーちゃんと一緒で“何を考えているかわからない”系の可愛さなんですよね。そこから感情を読み取ろうとすると,怖くも取れるし,愛らしくもできる。[…]まそたんたちは見る側の想像力と重なることで,どちらの感情にも振れるように見える[…]脚本でもその方向性を取り入れたいと思いました」(『Febri』Jul.2018 Vol.49「特集ひそねとまそたん」より)。確かに,まそたんたちの造形は可愛いと同時に,独特の不気味さを備えている。本来,人智を超えた存在であるはずのドラゴンの神秘性と,それを“飼育”する人の心理とを見事につなげる岡田の慧眼と言えるだろう。

自然=神的存在を馴化し,出来ることならペットにしたい―ひょっとしたら,これは常に災害の脅威にさらされている僕ら日本人にとって,究極の願望であり,“kawaii”文化の究極の形態なのかもしれない。

“マチスモ”の脱色

自衛隊の女性たちを主人公にしたことも,一つのテーマ設定として面白かった。『シン・ゴジラ』における自衛隊は,ゴジラに真っ向から対峙する存在として,文字通りマッチョに描かれていた。ゴジラ攻撃作戦を指揮するピエール瀧の顔面を真正面に据えたカットは印象的である。一方,『ひそまそ』では,そうしたマチスモはほぼ皆無である。もちろん,これを“男らしさvs女らしさ”というような単純な構図にすることは出来ない(彼女たちの風貌は一般的な“フェミニン”とはかけ離れている)が,少なくとも,自衛隊という言葉で連想される筋肉体質を中和し,対話や心の交流を成立させる役割を彼女たちが担っていたことは確かである。


最大の難点だったのは,この作品に物語としての“結”をつけるべく用意された「マツリゴト」の設定だった。超大型OTF「ミタツ様」は,まるでまそたんの愛玩性をキャンセルするかのように,ゴジラ的に描かれていた(おまけにFINAL FANTASY Xの最終ボス「シン」にそっくりだという特大のダジャレまでついていた)。最終話に向けてやや急ぎすぎた感があり,最終話そのものも,オチとしてはアッサリ過ぎた感が否めない。

とは言え,温かみのある作画,フランス・ギャルのカヴァーを用いたユニークなED,そして声優陣の,地声に近い等身大の演技は,作品のテーマ設定と絶妙なマッチングを見せており,アニメ表現の可能性を大幅に広げたことは間違いない。こうした要素は,間違いなく今期作品の中で最も評価されるべき点だろう。

アニメ『ゴールデンカムイ』レビュー:土方歳三はサラダボウルの中に

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©野田サトル/集英社・ゴールデンカムイ製作委員会

www.kamuy-anime.com

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4 3 3.5 4
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 4 3.5 3.5
独自性 普遍性 平均
4 4 3.75
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

マンガ原作既刊分既読

「循環史」と「発展史」

ギャグ,グルメ,猟奇,歴史的if,パロディといった複数要素が盛り込まれながらも,エルドラド的なわかりやすい冒険譚が物語を推進していくために,決してバラバラの寄せ集めになっていない。かなり計算されたエンターテインメントである。

ところで,この作品の世界観の基底にあるのは,「循環」と「発展」という,2つの異なるダイナミクスである。

「循環」とは,簡単に言えば食物連鎖のことであり,とりわけこの作品の最大の特徴でもある食事のシーンによって暗示されている。作中ではしばしば狩りのシーンが詳細に描写され,グルメマンガさながらの食事シーンが頻出する。それに加え,大便についての言及が多いのも特徴的だ。二瓶の「勝負の果てに獣たちが俺の体を食い荒らし/糞となってバラ蒔かれ山の一部となる/理想的な最後だ」(なおこの台詞は原作のママである)はこのダイナミクスを雄弁に物語っているし,アシリパの「オソマ」への執着も,単なるギャグ要素にとどまらない,象徴的な意味合いを持っていると言える。

さらに,この狩り→食事→排便という循環は,アニミズム的なアイヌの伝承が語られることにより,宗教的な意味合いを帯びる。そこでは人間は特権的地位を与えられず,食物連鎖の中に組み込まれている。

一方の「発展」は,簡単に言えば直線的な歴史の流れのことである。日露戦争への言及によって,歴史的ストーリーが川のように流れていることが暗示されている(ただし,“土方歳三の生存”という“if”により,僕らとは別の世界線であることが暗示されてはいるが)。

こうした循環と発展という,本来ならば異質なダイナミクスのわずかな接点の上に描かれているのが,前者を出自とするアシリパと,後者を出自とする杉元との奇跡的な邂逅なのだ。

対立を超えて

もちろんこれまでにも,アニミズム=循環的な時間と歴史=発展的な時間を軸とした世界観は度々語られて来た。例えば,手塚治虫『火の鳥 太陽編』では,「狗族」と呼ばれる山神的な種族の娘マリモと,歴史に翻弄されるハリマとの出会いと運命が語られる。また,宮崎駿『風の谷のナウシカ』でも,自然の循環の理を知るナウシカと,国家の歴史を担うアスベルやクシャナとの出会いは,同様の世界観を舞台にしていると言えるだろう。

ところが,こうした作品では,しばしばアニミズム=循環的観念と歴史=発展的観念との対立が強調され,前者による後者の批判というメッセージ性を持つことが多い。“批判”という構えこそが,そうした作品が現実に対して意味を持つ契機となっていると言っても過言ではない。

しかし『ゴールデンカムイ』は完全にエンターテインメントに舵を切っている。早くも物語冒頭でアシリパと杉元が共闘することにより,上記のような文明批判的構えを見せない関係性がはっきりと築かれているのだ。そればかりか,アシリパに「わたしは新しい時代のアイヌの女なんだ」と語らせることで,両者の共存の可能性を示しているようにも思える。

サラダボウルの中に

異なる種族や価値観が,対立も同化もせず,共存する可能性。“この”僕らの歴史的世界線ではなしえなかった世界を夢想してしまうのは,僕だけだろうか。

“自然対文明”というような二項対立や批判的構えではなく,複数の登場人物が接触し,語り,対話する,ポリフォニックな世界。これがこの作品の最大の醍醐味であり,文字通り古代の神話のように,人とも物の怪ともつかぬ人物たちが次から次へと現れてはそれぞれの価値観を主張しながら消え去り,アシリパと杉元の周辺を賑わしていく様は,途方もなく面白い。土方が生きていたかもしれないあの世界は,そんなワクワクするようなサラダボウルだったかもしれないのだ。ひょっとしたら,こうしたポリフォニックで多元的な世界観こそが,原作者の野田サトルがこの作品に込めた最大のメッセージなのかもしれない。

惜しむらくは,この作品のもう一つの醍醐味であるパロディ性や美術面での様式性などの要素が,アニメでは再現仕切れておらず,面白さが削がれてしまっている点だ。よって「ドラマ」「メッセージ」をともに3.5の評価にしてある。

10月からの2期放映が決まった。今後に期待したい。
 

アニメ『ヒナまつり』レビュー:盛り場で愛された小さな”松子”たち

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©2018 大武政夫・KADOKAWA刊/ヒナまつり製作委員会

hina-matsuri.net

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 5 3.5 4
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 3.5 3.5 3
独自性 普遍性 平均
5 3.5 4
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。
 

愛され松子

毎回笑わせられ,時にホロリとさせられた作品だった。

「元の場所では,命令をこなすだけが存在価値だった」というヒナの言葉から連想される,寒々としたディストピアらしき未来の世界(本当はちょっと違うようなのだが)。そこから,あの愉快な盛り場へと文字通り投げ込まれたことが,彼女たちの喜劇の始まりである。

この作品の大きな魅力は,登場人物のロールプレイが,盛り場に寄り集った人たちの雑多な関係の中で大胆にズラされていく様子だ。ヒナ=能力者→ズボラ中学生,新田=ヤクザ→父,アンズ=能力者→ホームレス→中華料理店の看板娘,瞳=優秀中学生→バーテンダー→有能キャリアウーマンなど,あり得ないズレ感とダイナミクス。ほとんど不可抗力的に人生をズラされながらも大人たちに愛されるヒナ,アンズ,そしてとりわけ瞳の姿は,まるで陽極に反転した『嫌われ松子の一生』のようでもある。

盛り場という舞台

一人一人のキャラクターとしての主体性よりも,都市という場での関係性に応じて役割を変えていく彼女たちの様子は,かつて吉見俊哉が「上演論的パースペクティヴ」という視点を導入しながら観察した,「盛り場」の人たちの戯画のようだ。この作品が,中学生,ヤクザ,サラリーマン,ホームレスなどといった,雑多な人の群れ集う盛り場を舞台にしているのは,故なきことではない。とりわけ吉見は,1960年代までの新宿という舞台に,「変幻自在さ」,つまり「人びとがこの街に来ることで日常の自明化された同一性を失い,いつでも別の何者かに変身できる状態」(吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』より)を見ていた。『ヒナまつり』のあの街は,そのようなロールプレイの自在性をカリカチュアライズしたような趣がある。

しかしそうしたロールプレイのズレが仮にカリカチュアだったとしても,僕らはそこに荒唐無稽ばかりを見るよりは,幾ばくかの真実味を感じてしまう。だからこそ,彼女ら/彼らの顛末を見て,笑わされると同時にホロリと泣かされてしまうのだ。都会に住む以上,社長もヤクザもホームレスも中学生も,同じ舞台で己を演じることを余儀なくされる。そしてどの役割も,自分がいつの日か演じる/演じたかもしれないという可能性を内在させながら,常に近接している。『ヒナまつり』は,そんな可能性をコミカルに“上演”してくれた良作だった。

2期待望!

ところで,そんな都会のダイナミクスから遠く離れた所で,ロビンソン・クルーソーから武芸の達人という極大アーチを描いた少女のことを忘れてはいけない。マオだ。このトンデモ娘を見送るシーンを最後にアニメは終わってしまった。このアーチが行き着くところを見届けない限りは,僕らの泣き笑いは宙づりにされたままだ。

特にアニメ化が成功しているだけに,このまま終わってしまうのは非常に勿体ない。原作もとても面白いのだが,アニメ化によって独自の演出が盛り込まれたことで,原作の面白みを倍増させている言える。とりわけ,念動力を使ったシーンでは,一番面白く見える動きと速度が綿密に計算されているようだった。こうしたアニメ化の成功例は,業界全体にとっても教訓になるのではないかと思う。

要するに,2期待望というわけだ。

 

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